ヘラの送った狂気でメガラとの子らを火に投げ込み、その償いとしてデルポイの神託に従いエウリュステウスに12年仕える。狂気が難業の「原因」になる順序。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

Ἡρακλῆς英雄
棍棒に寄りかかって休む、ファルネーゼのヘラクレス。 『ファルネーゼのヘラクレス』 写真 ジョルジョ・ゾンマー 写真は1860年代ごろ 像はナポリ国立考古学博物館。写真はクリーヴランド美術館CC0
英語で「とてつもない大仕事」を、ヘラクレスの仕事、と言い表すことがある。夜空には、ラテン語名で呼ばれるヘルクレス座もある。この英雄の名は、いまも「大変な難事」の代名詞として生きている。
まずは、その名前から。
ヘラクレスという名は、ふつう「ヘラの栄光」と読まれる。生まれる前から死ぬまで、彼を憎みつづけた女神の名だ。
しかも、生まれたときからこの名だったわけではない。はじめは別の名で呼ばれていて、ヘラクレスと呼んだのはデルポイの巫女が最初だった、とアポロドーロスは伝える。そのいきさつは後で出てくる。
話は生まれる日から始まる。テーバイで、ある将軍の妻アルクメネが、ゼウスの子を身ごもっていた。ゼウスは夫の留守に、夫の姿をして彼女のもとへ通ったのである。月が満ちたその日、ゼウスは神々の前で得意げに宣言した。今日生まれる、わが血を引く男が、まわりの者すべてを治める、と。
『イリアス』は、この先をヘラの策略として語る。ヘラはゼウスに、その言葉を誓いにしてくださいと迫った。ゼウスが誓うと、ヘラはオリュンポスを駆け下りて、アルゴスへ向かった。ペルセウスの息子ステネロスの妻が、まだ7か月の子を宿していた。ヘラはその子を月足らずで生まれさせ、アルクメネのお産は、お産の女神たちを引き止めて遅らせた。先に生まれたのは、ペルセウスの孫エウリュステウスだった。ゼウスの誓いは、ヘラクレスではなく、この男の上に落ちた。
アルクメネは双子を産んだ。ゼウスの子ヘラクレスと、一夜遅れて生まれた夫の子。生後8か月のとき、ヘラは二匹の大蛇を寝床に送り込んだ。母が夫を呼ぶ間に、赤ん坊のヘラクレスは起き上がり、両手で蛇を絞め殺した。

少年時代から、力は手に負えなかった。竪琴を教えていた師に打たれて逆上し、竪琴で殴り殺してしまう。裁判では無罪になったが、育ての父は息子を牧場へ遠ざけた。18歳で山のライオンを仕留め、その皮をまとい、頭の皮を兜にした。テーバイを苦しめていた隣国を打ち破った褒美に、テーバイの王の娘を妻に迎え、3人の息子が生まれる。
幸福は長く続かなかった。ヘラが送った狂気に取りつかれて、ヘラクレスは自分の子どもたちを火に投げ込んだ。正気に戻った彼はデルポイで神託を仰ぐ。巫女が初めて彼をヘラクレスと呼んだのは、このときだった。エウリュステウスに12年仕えて、命じられる難業を果たせ。それをやり遂げれば不死になる、と。
生まれる日に、ヘラの計略でゼウスの誓いを奪った、母のいとこ。その男に、ヘラクレスは仕えることになった。
難業は、ネメアのライオンの皮を持ち帰ることから始まった。九つの頭をもつ水蛇ヒュドラ、黄金の角の鹿、山の猪、ある王の家畜小屋の掃除、湖の怪鳥、クレタの牡牛、人を食う馬、アマゾンの女王の帯、世界の西の果てにいる怪物の牛。はじめは10の約束だったが、エウリュステウスは、ヒュドラ退治は甥の手を借りたから、家畜小屋は報酬を取ったからと言って二つを認めず、さらに二つを課した。西の果ての園にある黄金の林檎と、冥界の番犬ケルベロスである。ヘラクレスは冥界へ下りて番犬を連れ出し、エウリュステウスに見せてから冥界へ返した。

難業の合間にも、ヘラクレスは戦い続けた。約束の報酬を払わなかったトロイアの王の街を、6隻の船で攻め落としたのもこの英雄だ。一方で、狂気はまた彼を襲った。客として迎えた若者を城壁から投げ落として殺し、病に取りつかれる。デルポイの巫女が答えてくれないと、神殿の三脚の鼎を奪って自分の神託所を開こうとし、アポロンと取っ組み合いになった。二人を分けたのはゼウスの雷である。償いとして、ヘラクレスは奴隷に売られ、小アジアの女王に3年仕えた。
最期をもたらしたのは、二度目の妻デイアネイラだった。昔、川の渡し守をしていた半人半馬のケンタウロスが彼女に乱暴しようとし、ヘラクレスに射られた。死にぎわにケンタウロスは、自分の血を惚れ薬として取っておけ、と彼女に吹き込んだ。矢には、ヒュドラの毒が塗ってあった。

年月が流れ、ヘラクレスが遠征先から若い王女を捕虜として連れてくると聞いて、デイアネイラは夫の心が離れるのを恐れた。そして血を衣に塗って送った。ヘラクレスが衣をまとって犠牲を捧げはじめると、体の熱で衣が温まり、毒が肌を焼きはじめる。引き剥がそうとすると、肉ごと剥がれた。事の次第を知ったデイアネイラは、自ら首をくくった。
ヘラクレスは山の上に火葬の薪を積ませ、その上に横たわった。誰も火を点けようとしない。通りかかった羊飼いが火を点け、ヘラクレスは礼に自分の弓を与えた。悲劇作家ソポクレスの劇では、火を点けたのはその羊飼いの息子で、この弓がのちにトロイアを落とす鍵になる。
薪が燃えているあいだに、雲がヘラクレスの下に入り、雷鳴とともに天へ運び上げたという。彼は不死となり、ヘラとも和解して、その娘である青春の女神ヘベを妻にした。

ただし、『イリアス』と『オデュッセイア』の語り方は少し違う。『イリアス』のアキレウスは、ゼウスにいちばん愛されたヘラクレスでさえ、運命とヘラの怒りに屈して死を免れなかった、と言う。『オデュッセイア』で冥界へ下りたオデュッセウスは、弓に矢をつがえてあたりをにらむヘラクレスに出会う。だがそれは幻の影で、本人は神々の宴にいてヘベを妻にしている、と詩は断っている。影は、自分よりはるかに劣る男に仕えさせられた苦しみを、オデュッセウスに語って去っていった。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、ソポクレス『ピロクテテス』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』、小学館『デジタル大辞泉』
ヘラの送った狂気でメガラとの子らを火に投げ込み、その償いとしてデルポイの神託に従いエウリュステウスに12年仕える。狂気が難業の「原因」になる順序。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
エウリピデスの悲劇では、最後の難業を終えて冥界から帰ったヘラクレスが狂気に襲われ、妻と子らを殺す。狂気が難業の「後」に来る逆の順序で、功業の頂点から転落する劇として組まれている。
エウリピデス『ヘラクレス(狂えるヘラクレス)』 前420〜前414年頃
毒の衣に焼かれたヘラクレスはオイテ山に薪を積ませたが、誰も火を点けようとしない。通りかかったポイアスが点火し、礼に弓を与えられた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ソポクレスとオウィディウスでは、火を点けたのはポイアスの子ピロクテテス本人で、その礼に弓を受け継ぐ。この弓がのちにトロイア陥落に欠かせないものとなる。
ソポクレス『ピロクテテス』 前409年、オウィディウス『変身物語』 8年頃
名はギリシャ語で「ヘラの栄光」と解される(ヘラ+kleos「名声」)。自分を憎んだ女神の名を背負っている。アポロドーロスは、もとはアルケイデスと呼ばれ、デルポイの巫女が初めてヘラクレスと呼んだとする。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
生後8か月のとき、ヘラが寝床に二匹の大蛇を送ったが、ヘラクレスは両手で絞め殺した。ペレキュデスの説では、蛇を入れたのはどちらが自分の子か見分けようとしたアンピトリュオンだという。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
竪琴の師リノスに打たれて逆上し、竪琴で打ち殺した。ラダマンテュスの法を引いて無罪となったが、アンピトリュオンは彼を牧場へ送った。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
デルポイの巫女が命じたのは「10の難業」だったが、エウリュステウスはヒュドラ退治(イオラオスの助けを借りた)とアウゲイアスの家畜小屋(報酬を取った)を認めず、黄金の林檎とケルベロスを追加した。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
イピトスを狂気のうちに殺して病にかかり、デルポイで鼎を奪おうとしてアポロンと争い、ゼウスの雷で分けられる。神託に従ってヘルメスに売られ、リュディアの女王オンパレに3年仕えた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ネッソスは死にぎわに、自分の血を惚れ薬としてデイアネイラに渡させた。イオレのことを知った彼女がそれを衣に塗って送ると、ヒュドラの毒が肌を焼き、剥がすと肉ごと剥がれた。デイアネイラは首をくくった。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ホメロスはすでに、ヘラクレスがゼウスとアルクメネの子であること、エウリュステウスの課す「難業」に苦しんだこと、冥界の番犬を連れ出したこと、6隻でトロイアを落としたことを知っている。ただし難業の数や一覧、火葬の薪の上での最期は語られず、『イリアス』は「ヘラクレスでさえ死を免れなかった」とする。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
ゼウスが「今日生まれる自分の血筋の者が周囲を治める」と宣言すると、ヘラはアルクメネの出産を止め、ペルセウスの孫エウリュステウスを七か月で先に生ませた。このためヘラクレスは、母のいとこにあたるこの男に仕えることになる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
死後は神々の列に加わり、ゼウスとヘラの娘ヘベを妻にする。『オデュッセイア』でオデュッセウスが冥界で見るのは「幻影(エイドロン)」で、本人は神々のもとにいると断っている。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃、ヘシオドス『神統記』 前700年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
『イリアス』のアキレウスは、ゼウスに最も愛されたヘラクレスでさえ運命とヘラの激しい怒りに屈して死を免れなかった、と言う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『オデュッセイア』11.269-270、アポロドーロス2.4.11、『ヘラクレス』9-14
4.8-10 黒海沿岸のギリシャ人の伝え。名は出ず「半ば乙女の蝮(エキドナ)」と呼ばれる女
2.4.5 アルクメネを介した曾孫
『オデュッセイア』11.269-270「心高いクレオンの娘メガラ」をヘラクレスが妻とする / 2.4.11 / 72
2.4.11 母アルクメネの再婚相手
『ヘラクレス』999-1000 一本の矢で妻と子を射倒す。ヒュギヌス32。アポロドーロス2.4.12・2.6.1 では殺されず、のちにイオラオスに嫁ぐ
2.5.9 女王ヒッポリュテの帯をめぐる戦い
2.5.11 金の林檎を取りに来たヘラクレスに天を預け、林檎を取ってくるが、策略で再び天を背負わされる
アポロドーロス2.5.5、2.7.2、『オリュンピア祝勝歌』10.24-42、パウサニアス5.1.10-5.3.1
2.5.4、2.7.6
アポロドロス 1.6.1-2、ピンダロス『ネメア祝勝歌』1.67-69、エウリピデス『ヘラクレス』1190-1194
5.395-397 ピュロスで冥王ハデスをも矢で射た
11.690-693 ヘラクレスがピュロスを荒らし、ネレウスの12人の息子のうちネストルだけが生き残った
837-860(844 で墓のそばでタナトスを待ち伏せると決める), 1140 「死霊たちの主と格闘して」アルケスティスを取り戻したと語る
アポロドーロス2.5.11、『イストミア祝勝歌』4.52-55、ディオドロス4.17.4、ヒュギヌス31
2.5.9 ヘラの流言で戦いになり、ヘラクレスが女王を殺して帯を奪う。『アルゴナウティカ』2.966-969 では殺されず、身代金として帯を渡す
アポロドーロス2.5.6 鳴り物で飛び立たせて射落とす。ヒュギヌス30 アレスの島で射殺す。パウサニアス8.22.4 ペイサンドロスは殺さず追い払っただけとする。ディオドロス4.13.2 も追い払う
2.5.4 ケンタウロスを射た矢が誤ってケイロンの膝に当たる。不死ゆえ死ねず苦しみ、プロメテウスが不死を引き受けて死ぬ
2.5.11 アトラスに林檎を取らせ、天空を担ぐ役を策略で返す
客として迎えたヘラクレスが、恩返しに死神と組み合ってアルケスティスを連れ戻す。1140-1143
2.5.12 冥界で椅子に縛られたテセウスを引き起こして連れ帰る。摘要 1.16 アマゾン遠征に同行
1.122-131 乗組員として参加
2.4.11 ヘルメスから剣を贈られる
2.4.11 アポロンから弓と矢を贈られる(のちピロクテテスに渡る弓)
1.1315-1320 ヘラクレスはアルゴスに戻って十二の功業を果たす定めだと告げる(本人ではなく仲間たちに)
5.14.2 テスプロティアのアケロン川の岸で白ポプラを見つけた
2.7.6-7 カリュドンを追われたヘラクレスがデイアネイラを連れてトラキスのケユクスのもとへ行き、2.8.1 ヘラクレスの死後、子らもケユクスを頼る
2.4.12(名を告げられる)、2.6.2(三脚台を奪おうとする)
アポロドーロス 2.5.11 黄金の林檎を取りに行く、エウリピデス『ヘラクレス』394-399
『イリアス』5.638-642 ラオメドンの馬のために6隻で来てイリオスを攻め落とした、14.250-251。アポロドーロス 2.5.9, 2.6.4
5.56-175 ケルベロスを連れに冥界へ降りたヘラクレスが、メレアグロスの亡霊と出会う
2.5.8
2.4.12
『オデュッセイア』11.623-626 ハデスの犬を連れ出しに下った /『アエネイス』6.392-395
『アエネイス』8.185-275 ヘラクレスが怪物カクスを退治した話を語り、その祭りの由来を説く。リウィウス 1.7.3-15
『オリュンピア祝勝歌』10.43-59、3.11-34
アポロニオス 1.122-131, 1.1207-1320(途中で置き去り)、アポロドーロス 1.9.16, 1.9.19
アポロドロス 1.6.1-2、『ネメア祝勝歌』1.67-69、エウリピデス『ヘラクレス』1190-1194
ヘラクレスに死から連れ戻される。『アルケスティス』1140-1146、アポロドーロス 1.9.15
Herculean(ハーキュリアン)英語で「並外れて大きい・強い」、また「きわめて困難な」を表す形容詞。英語での記録は1590年代からで、ヘラクレス(ラテン語形 Hercules)の難業にちなむ。a Herculean task は「とてつもない大仕事」。ラテン語形 Hercules はエトルリア語の Hercle を経た形で、ローマ人の「メ・ヘルクレ!(me Hercule! 誓って!)」という感嘆詞にもなった。
ヘラクレスオオカブト / Hercules beetle世界最大級のカブトムシ、ヘラクレスオオカブトは中南米にすむ。学名は Dynastes hercules で、もとは1758年にリンネが名付けた。奈良県の橿原市昆虫館は、この名前はギリシャ神話で最大の英雄ヘラクレスに由来すると説明している。英語でも Hercules beetle と呼ばれ、辞書は雄が5インチ(約13センチ)を超え、現生の昆虫でおそらく最大だと説明している。
ヘルクレス座北天の星座。日本語の「ヘルクレス」は、ラテン語の Hercules を写した名で、デジタル大辞泉・世界大百科事典とも、名はギリシャ神話のヘラクレスにちなむとする。英語で Hercules と呼ばれるのは1670年代から(etymonline)。オウィディウスはこの星座を名で呼ばず「膝をつく者」(Nixus genu)と言い、アリアドネの冠(かんむり座)がこの「膝をつく者」と「蛇を持つ者」の間に置かれたと書く。
ヘラクレスの柱 / Pillars of Hercules地中海から大西洋へ抜ける出口、ジブラルタル海峡の入口に向かい合う二つの岬は、ギリシャの時代に「ヘラクレスの柱」と呼ばれていた。アポロドーロスによれば、西の果てにすむ怪物ゲリュオンの牛を奪いに行く旅の途中、ヘラクレスはヨーロッパとリビア(アフリカ)の境に、旅のしるしとして向かい合う二本の柱を建てた。紀元前5世紀のピンダロスは、競技で勝った人の栄光を「ヘラクレスの柱に届いた」とたたえ、その先へは賢い者も進めない、と詩の中で述べる。柱は、人が行ける世界の果てのしるしだった。英語で Hercules の名が現れるのは1200年ごろで、最初はこの柱を指す言い方の中でだったという。