『オデュッセイア』では、テセウスがクレタからアテナイへ連れて行こうとしたが果たせず、ディオニュソスの証言によって、アルテミスがディア島で彼女を殺した。ここでのディオニュソスは夫ではなく、むしろ告発者に見える。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃

Ἀριάδνη人間
ナクソス島に置き去りにされたアリアドネ(左)のもとへ、ディオニュソスが現れる。ティツィアーノの絵。 『バッカスとアリアドネ』 ティツィアーノ 1520〜1523年Public domain
夏の夜空、ヘルクレス座とへびつかい座のあいだに、冠の形に星が並ぶ星座がある。「かんむり座」だ。ローマの詩人オウィディウスによれば、これはある王女の額を飾っていた冠が、天に投げ上げられて星になったものだという。その王女が、迷宮の怪物を倒す英雄に糸玉を渡したアリアドネである。
アリアドネは、クレタ島の王ミノスの娘である。王家には、口にしにくい秘密があった。王妃が牡牛と交わって産んだ、牛の頭をした怪物ミノタウロス。アリアドネにとっては、母を同じくするきょうだいにあたる。怪物は、名工ダイダロスが造った迷宮に閉じ込められていた。
ミノスは、息子をアテナイで失ったことを恨んでアテナイを攻め、若者7人と乙女7人を怪物の餌として差し出させていた。その3度目の貢ぎ物の中に、アテナイの王子テセウスがいた。
テセウスに恋をしたアリアドネは、取り引きを持ちかけた。私をアテナイへ連れて帰って妻にすると誓うなら、あなたを助けましょう。テセウスが誓うと、アリアドネは迷宮を造ったダイダロス本人に、出口への道を尋ねた。教えられたとおり、彼女はテセウスに糸玉を渡す。テセウスは糸の端を入口の扉に結びつけ、糸を繰り出しながら奥へ進んだ。迷宮のいちばん奥で怪物を見つけると、拳で殴り殺し、糸をたどって外へ出た。

その夜、テセウスはアリアドネとアテナイの若者たちを連れてクレタを脱出し、ナクソス島に着いた。ここから先の話は、伝える作品によって驚くほど違う。
後の時代の神話集では、ナクソス島で酒の神ディオニュソスがアリアドネに恋をし、彼女を連れ去った。同じ本は、アリアドネを失った悲しみのあまり、テセウスが帰りの船に白い帆を揚げるのを忘れた、とも書いている。息子が生きて帰るなら白い帆を、と約束していた父王は、黒い帆を見て息子が死んだと思い込み、アクロポリスから身を投げた。
オウィディウスの詩では、テセウスが彼女を島の浜に置き去りにして船出してしまう。嘆き悲しむアリアドネを慰め、救ったのがディオニュソスだった。神は彼女の額から冠を取って天に投げ上げた。冠の宝石は空を飛ぶうちに炎の輝きに変わり、冠の形のまま星座になった。『神統記』によれば、ディオニュソスは彼女を妻にし、ゼウスがその妻を不死にして、老いることのない身にしてやったという。
ところが、いちばん古い『オデュッセイア』は、まったく違う結末を短く語っている。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
『オデュッセイア』では、テセウスがクレタからアテナイへ連れて行こうとしたが果たせず、ディオニュソスの証言によって、アルテミスがディア島で彼女を殺した。ここでのディオニュソスは夫ではなく、むしろ告発者に見える。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
ヘシオドスでは、ディオニュソスがアリアドネを妻にし、ゼウスが彼女を不死不老にした。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
アポロドーロスでは、ナクソス島でディオニュソスが彼女に恋して連れ去り、レムノスで子をもうけた。オウィディウスでは、テセウスがディア島の浜に置き去りにしたのを、リベル(ディオニュソス)が慰めて救い、冠を天に投げ上げて星座にした。
オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
プルタルコスは、この件は話がまったく一致しないと断ったうえで、捨てられて首を吊ったという説、ナクソスでディオニュソスの神官オイナロスと暮らしたという説、テセウスが別の女性アイグレに心を移したためという説、テセウスとの間に子があったという説を並べる。
プルタルコス『対比列伝(英雄伝)』 2世紀初頭
アポロドーロスでは、テセウスに恋したアリアドネは「アテナイに連れ帰って妻にする」と誓わせたうえで、ダイダロスに迷宮の出方を聞き、その助言どおり糸玉をテセウスに渡した。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスでは、ディオニュソスが彼女の額の冠を天に放つと、宝石が火の輝きに変わり、冠の形のまま「膝をつく者」(のちのヘルクレス座)と「蛇を持つ者」(へびつかい座)の間に並んだ。かんむり座の由来譚である。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
『イリアス』では、ヘパイストスがアキレウスの盾に描いた踊りの場が「かつて広いクノッソスでダイダロスが髪の美しいアリアドネのために造った踊り場」にたとえられる。ホメロスでダイダロスの名が出るのはこの一箇所だけ。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アリアドネの糸「アリアドネの糸」は、とても難しい状況から抜け出すときの道しるべになるもののたとえ。故事成語の辞典は、1951年のある文章から「アリアドネの糸をたどって」という使い方を例に挙げている。もとは、怪物ミノタウロスを退治するために、一度入ったら出られない迷宮に入る英雄テセウスの話。クレタの王女アリアドネは、自分をアテネに連れ帰って妻にすると誓わせたうえで、迷宮を造った職人に抜け出す方法を尋ね、その助言どおり糸玉をテセウスに渡した。テセウスは糸をたどって無事に戻ってきた。ところがアリアドネは、帰り道に立ち寄った島でテセウスと別れることになる。置き去りにされたとも、酒の神ディオニュソスに連れ去られたとも伝わる。
アリアン(ロケット)/ Arianeヨーロッパのロケット「アリアン」の名は、迷宮から抜け出す糸をテセウスに渡した王女アリアドネのフランス語形である。欧州宇宙機関(ESA)の歴史記事によると、名前が決まるまでにはひと騒動あった。1973年、長ったらしい仮の名前に代わる名を各国の代表が出し合ったところ、いちばん票を集めたのは星の名「ベガ」だった。ところが正式に決める段になって、フランスが「ベガはフランスのビールの名前だ」と反対し、代わりに「ペネロペ」「フェニックス」「アリアン」の3つを示した。フェニックス(不死鳥)には、「前の計画(ELDO)の灰がまだ熱い」とドイツが反対し、ペネロペもふさわしくないとされて、アリアンに決まった。それから30年ほどたって、ESAの小型ロケットには結局「ベガ」の名が付いた。
かんむり座 / Corona Borealisかんむり座(冠座)の冠は、クレタの王女アリアドネの冠である。ローマ時代のヒュギヌスの『天文譜』によれば、酒の神ディオニュソスがアリアドネと結婚したとき、神々がこぞって贈り物をし、アリアドネはアプロディテと季節の女神たちからこの冠を受け取った。のちにディオニュソスが、この冠を星のあいだに置いた。同じ本には、こんな伝えもある。冠は鍛冶の神ヘパイストスが金とインドの宝石で作ったもので、英雄テセウスは、暗闇の中で光を放つこの冠の輝きのおかげで、迷宮の闇から外へ出られたのだという。迷宮を抜け出す道しるべといえば「アリアドネの糸」が有名だが、糸ではなく冠だったとする話もあったわけである。語源辞典によれば、この星座はほかの星座よりずっと名前どおりの形をしていて、ギリシャ人は「花の冠」と呼び、ローマ時代からは「アリアドネの冠」と呼ばれた。ラテン語の corona は「冠」の意味で、皆既日食のとき太陽のまわりに見える光の輪「コロナ」も、1809年からこの言葉で呼ばれている。