ゼウスが頭からアテナを産んだことへの対抗として、ヘラが交わりなしに独力で産んだ、とヘシオドスは語る。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃

Ἥφαιστος神
金床のそばに座る鍛冶の神の大理石像。ローマ名のウルカヌスとして作られた。 『ウルカヌス』 ギヨーム・クストゥ(子) 1742年(フランス王立アカデミー入会作品。コモンズの説明による) ルーヴル美術館(MR 1814)。写真 Jastrow(2006年)Public domain
英語で火山のことを「ボルケーノ」という。もとをたどると、ローマ人が火と鍛冶の神とあがめたウルカヌスの名に行き着く。ローマ人は、火を噴くシチリアのエトナ山を、この神の鍛冶場だと考えていた。そのウルカヌスにあたるギリシャの神が、ヘパイストスである。
この鍛冶の神は、オリュンポスの神々に腹をかかえて笑われたことがある。
ゼウスとヘラの夫婦喧嘩で、神々の宴が凍りついたときのことだ。足の不自由な息子のヘパイストスが母をなだめ、大杯を手に、神々の間をせわしなく行き来して酒をついで回った。その姿を見て、神々の笑いが止まらなくなった。
生まれには二つの話がある。『神統記』は、ゼウスが自分の頭からアテナを生み出したことに対抗して、女神ヘラが夫と交わらずに一人で産んだ子だとする。一方『オデュッセイア』のヘパイストスは、ゼウスを「父」と呼んでいる。
足が不自由になったいきさつは、『イリアス』の中でさえ食い違う。あるところでは、本人がこう語る。昔、母ヘラをかばったら、ゼウスに足をつかまれて天の敷居から放り出された。まる一日落ち続け、日の沈むころにレムノス島に落ちた。息も絶え絶えのところを、島の人々が手当てしてくれた。ところが別のところでは、足が萎えて生まれた我が子を恥じた母ヘラ自身が、隠そうとして天から投げ落としたことになっている。そのとき海の女神テティスたちが彼を受け止め、海の洞窟で9年間かくまってくれた。
この恩が、のちに大きな意味を持つ。息子アキレウスの武具をなくしたテティスが、ヘパイストスの館を訪ねてきたのだ。

星をちりばめた青銅の館で、ヘパイストスは汗をかいてふいごの間を動き回っていた。作っていたのは、脚に黄金の車輪をつけた鼎を20個。神々の集まりに自分で出かけていき、また自分で戻ってくる仕掛けだった。足の悪い主人を支えて歩くのは、黄金で作られた侍女たちで、心も声も力も持っていた。
恩人の頼みを、ヘパイストスは断らない。一夜のうちに鍛え上げた楯には、大地と天と海、太陽と月と星々、婚礼の行列と裁きの場がある町、戦に囲まれた町、耕される畑や収穫のぶどう畑までが刻まれていた。
オリュンポスの神々の館を建てたのも彼である。トロイア戦争でギリシャ軍の総大将が持っていた王の杖も、もとは彼の作ったものが、ゼウスから代々受け継がれてきたものだった。戦場では、女神ヘラに頼まれて炎を放ち、アキレウスを飲み込もうとした川の神を焼き立てて退かせた。
妻は、愛と美の女神アプロディテ。ところが彼女は、軍神アレスと密会を重ねていた。それを太陽神から聞いたヘパイストスは、蜘蛛の糸より細く、神々の目にも見えない網を鍛え、寝台のまわりに仕掛けた。出かけたふりをすると、二人はさっそく寝台に入り、網に絡め取られて身動きできなくなった。

ヘパイストスは神々を呼び集める。女神たちは恥ずかしがって来なかったが、男の神々は戸口で笑い転げた。足の遅い者が、神々の中でいちばん足の速い者を捕まえた、と。アポロンが、お前ならあんなふうに縛られてもいいかとヘルメスをからかうと、ヘルメスは答えた。鎖が三倍になって、神々と女神がみんな見ていたってかまわない、黄金のアプロディテの隣で眠れるなら。アレスを放してやれと頼み込んだのは海の神ポセイドンで、償いは必ずさせると請け合った。

後の時代の神話集には、ヘパイストスがアテナに恋をした話もある。武具を作ってほしいと鍛冶場を訪ねてきた女神を、彼は追いかけた。足が悪いのでなかなか追いつけない。ようやく抱きつこうとしたが、女神は身をかわし、その精は女神の脚に落ちた。アテナが羊毛でぬぐって地面に投げ捨てると、大地から一人の子が生まれた。アテナがひそかに育てたこの子は、のちにアテナイの王になり、アクロポリスにアテナの木像を祀ったという。
ほかにも、彼の手はあちこちの物語に入り込んでいる。神々と巨人族の戦いでは、真っ赤に焼けた金属の塊を投げつけて巨人を倒した。英雄ヘラクレスには黄金の胸当てを贈っている。ゼウスの命令で土と水をこね、最初の女パンドラの姿を形づくった。悲劇詩人アイスキュロスの劇では、気の進まないまま、人間に火を与えたプロメテウスを岩山に鎖で縛りつける役を負わされる。同じ神話集には、ゼウスの頭を斧で割ってアテナを生まれさせたのは、プロメテウスとも、ヘパイストスともいう、という話もある。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、ヘシオドス『仕事と日』、アイスキュロス(伝)『縛られたプロメテウス』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
ゼウスが頭からアテナを産んだことへの対抗として、ヘラが交わりなしに独力で産んだ、とヘシオドスは語る。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ホメロスではゼウスを父と呼ぶ場面があり、ゼウスとヘラの子として扱われている。単独出産の話はホメロスには無い。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
ヘラをかばったためゼウスに足を掴まれ、天の敷居から投げ落とされた。一日中落ち続け、日没にレムノス島へ落ちてシンティエス人に助けられた、と本人が語る。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
同じ『イリアス』の別の箇所では、足が萎えていることを恥じた母ヘラが自分を隠そうとして投げ落とし、テティスとエウリュノメが海の洞で九年間匿ってくれた、と語る。投げた者も理由も食い違う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
英語 volcano(火山)はローマ名ウルカヌスに由来する。イタリア語 vulcano「燃える山」を経た語で、ローマ人はエトナ山をウルカヌスの鍛冶場と考えた。語源の節も参照。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
ゼウスの頭を斧で打ち割ってアテナを生まれさせたのは、プロメテウスとも、ヘパイストスとも言われる、とアポロドーロスは両説を並べる。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ヘラクレスは、ヘルメスから剣、アポロンから弓矢、アテナから長衣を贈られ、ヘパイストスからは黄金の胸当てを贈られた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
テティスの依頼でアキレウスの武具を鍛える。楯に刻まれた大地・天・海、二つの都市、耕地、婚礼と裁判の場面が描かれる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
黄金で作られた侍女たちが、心と声と力を持ち、彼を支えて歩くとホメロスは書く。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アレスとアプロディテを捕らえるため、蜘蛛の糸より細く神々にも見えない網を鍛え、寝台の脚の周りに仕掛けた。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
神々の喧嘩をなだめたあと、ヘパイストスは母ヘラに杯を渡し、左から右へ神々に神酒をついで回る。館の中をせわしなく動く彼の姿を見て、神々は尽きることのない笑いを上げた。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
テティスが訪ねたとき、ヘパイストスは脚に黄金の車輪をつけた鼎を20個作っていた。神々の集まりへひとりでに入っていき、また館へ戻ってくる仕掛けである。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アキレウスが川の神クサントス(スカマンドロス)に呑まれかけたとき、ヘラに呼ばれたヘパイストスが炎を放ち、川岸の木々と流れそのものを焼き立てて川の神を屈服させた。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アガメムノンの王笏はヘパイストスが作ってゼウスに与えたもので、ヘルメス、ペロプス、アトレウス、テュエステスを経てアガメムノンに伝わった。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
網に捕らえられたアレスとアプロディテを見て、アポロンが「あのように縛られてもアプロディテと寝たいか」とヘルメスに尋ねると、ヘルメスは「縛めが三倍でも、神々と女神がみな見ていても構わない」と答え、神々はまた笑った。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
8.270-271
1.9.23 青銅の足で火を吐く二頭の牡牛
3.4.2 首飾りはヘパイストスの作。ヘパイストスがカドモスに与えたとも、ペレキュデスによればゼウスからエウロペが受け取ったものともいう
1.4.3 盲目にされたあと鍛冶場へ行き、少年を肩に乗せて日の出の方角へ案内させる
8.266-366 見えない網で二人を捕らえる
エンニウスの詩句(アプレイウス『ソクラテスの神霊について』2)とリウィウス22.10.9 のローマの十二柱。ギリシャの神に対応させた
15.308-310
18.468-617。テティスの依頼で一夜のうちに作る
8.283-284 いちばん愛しい土地
1.6.2 灼熱の金属の塊でミマスを倒す
火山 / volcano英語 volcano(1610年代)はイタリア語 vulcano「燃える山」から、さらにローマの火と鍛冶の神ウルカヌス(ヘファイストスと同一視)に遡る。ローマ人はエトナ山をウルカヌスの鍛冶場と考えた。
加硫(vulcanization、バルカナイズ)生ゴムに硫黄などを混ぜて熱し、ゴムの弾性を増す方法。1839年にアメリカのグッドイヤーが見つけた。英語では加硫を vulcanization、加硫することを vulcanize という。この語は1846年から記録があり、ローマの火と鍛冶の神ウルカヌスの名から作られた。火で鍛えることを受け持つ神の名を、熱を加えてゴムを強くする方法に当てたのである。ウルカヌスは、ギリシャの鍛冶の神ヘパイストスにあたる。