クロノスが切り落とした父ウラノスの性器が海に落ち、その周りに立った白い泡から生まれた。キュテラ島に近づき、キュプロス島に上陸した。ゼウスより古い世代の神になる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃

Ἀφροδίτη神
プラクシテレスの像を写した、クニドスのアフロディテ。 『クニドスのアフロディテ』 プラクシテレスの像の写し ローマ時代の写し(元は前4世紀のギリシャの像。コモンズの説明による) アルテンプス宮(ローマ国立博物館)。写真 Marie-Lan Nguyen(2009年)Public domain
大きな貝の上に、裸の女神がすっと立っている。風の神に吹き寄せられて、いま岸にたどり着くところだ。ルネサンスの画家ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』。美術の教科書やポスターで、一度は目にしたことがあるだろう。

ヴィーナスはローマの愛と美の女神で、ギリシャ神話ではアプロディテにあたる。金星の英語名ヴィーナスも、媚薬を意味する英語「アフロディジアック」も、この女神の名から来ている。
この愛の女神がギリシャ神話でどんなふうに語られてきたのか、生まれから順にたどってみよう。
愛の女神にしては、その生まれはぞっとするほど血なまぐさい。
『神統記』はこう語る。息子に切り落とされた天空の神ウラノスの性器が、海に投げ込まれ、長いあいだ波間を漂った。その不死の肉のまわりに白い泡が立ち、泡の中で一人の乙女が育つ。乙女は海を渡って、キュプロス島(今のキプロス)に上がった。歩む足もとには草が生えたという。
泡から生まれたからアプロディテと呼ばれる、と『神統記』は名前の由来まで生まれ方で説明している。生まれた瞬間から、愛の神エロスと憧れの神が付き従った。彼女が受け持つのは、乙女のささやき、ほほえみ、欺き、甘い喜び、そして愛。
この誕生だと、アプロディテはゼウスより一世代古い神になる。
ところが『イリアス』では、彼女はゼウスの娘で、泡の話はどこにも出てこない。同じ女神に、まったく違う二つの生まれがある。
どちらの生まれでも、彼女の力は神々にまで及んだ。『ホメロス風讃歌』の一篇『アプロディテ讃歌』によれば、この女神に心を動かされなかったのは、アテナ、アルテミス、ヘスティアの三女神だけだった。神々を次々と人間の女に恋させてきたのも彼女である。
そこでゼウスは、仕返しのように、アプロディテ自身の胸に人間への欲望を植え付けた。相手はトロイアの王族で、イデ山で牛を飼っていた若者アンキセス。女神は、まだ男を知らない乙女の姿に身をやつして彼の前に立ち、自分は遠い国の王の娘だと名乗った。女神だと知れば、相手が怯えるからだ。

二人が結ばれたあと、女神は本当の姿を現した。頭は小屋の梁に届き、頬は不死の美しさに輝いていた。怯えるアンキセスに、女神は告げる。あなたには息子が生まれ、トロイア人を治めるだろう。名はアイネイアスとするがいい。人間の男の床に落ちたことで、私が恐ろしい悲しみを抱いたのだから。そして釘を刺した。女神と交わったなどと人に漏らせば、ゼウスの雷に打たれる、と。
その息子アイネイアスは、トロイア戦争を生き延びる。後の時代にはローマ人の祖先と仰がれた英雄だ。
アプロディテには夫がいた。鍛冶の神ヘパイストスである。『オデュッセイア』で、宴の楽人が歌って聞かせる話では、女神は戦の神アレスと夫の留守に通じていた。それを見ていた太陽神ヘリオスが告げ口をし、ヘパイストスは目に見えない鎖の網を寝台に仕掛けた。
網にかかった二人を見に、男神たちが集まってくる。女神たちは恥ずかしがって家にこもった。神々は大笑いし、アポロンが伝令の神ヘルメスに、あの網に捕まってもいいから女神と寝たいか、とからかうと、ヘルメスは、網が三倍でも、神々がみな見物していてもかまわない、と答える。神々はまた笑った。放された女神が逃げ帰った先は、キュプロスのパポスにある自分の聖域。そこで美の女神たちに湯浴みをさせてもらった。

トロイア戦争の種をまいたのも、この女神である。三女神のうち誰がいちばん美しいかをトロイアの王子パリスが裁いたとき、彼が選んだのはアプロディテだった。『イリアス』は、パリスが自分に破滅的な欲望をかなえてくれる女神を立てた、と語る。こうしてスパルタ王の妃ヘレネが、パリスとともにトロイアへ渡った。

戦場でも、女神はパリスを守り続けた。一騎打ちでヘレネの夫に兜の緒をつかまれ、首を締め上げられたパリスを、女神は緒を断ち切って救い出し、霧に包んで寝室へ運んだ。そして老婆の姿でヘレネを呼びに行く。ヘレネが拒むと、女神は脅した。私を怒らせるな。今はこれほど愛してやっているが、同じだけ憎むこともできるのだ、と。ヘレネは黙って従った。
息子アイネイアスが危なくなったときは、自ら戦場に降りて彼を抱きかかえた。そこへギリシャの勇将の一人が槍を突き出し、女神の手首を傷つける。流れたのは、人間とは違う、神々だけに流れる血だった。泣きながらオリュンポスへ逃げ帰った女神は母の膝にすがり、アテナには嘲られ、父ゼウスには、戦はお前の仕事ではない、婚礼のことを受け持っていればよい、と笑ってたしなめられた。

戦の中盤には、トロイア方のはずの女神が、ギリシャ方の味方をしてしまう場面もある。ヘラが、仲たがいしている老いた神の夫婦を仲直りさせたいから、と偽って、愛と欲望の力を借りに来た。女神はあらゆる誘惑を縫い込んだ刺繍の帯を胸もとから外して渡す。ヘラの本当の狙いは、その帯でゼウスを誘って眠らせ、その隙にギリシャ方を助けることだった。
最初の女パンドラの頭に、恩寵と、人を苦しめる欲望を注いだのもアプロディテだと『仕事と日』は書く。愛の女神は、いつも喜びと災いを一緒に運んでくる。
後の時代には、美少年アドニスへの恋や、息子エロスと人間の娘プシュケの物語など、この女神をめぐる話はさらに増えていく。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、ヘシオドス『仕事と日』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、ウェルギリウス『アエネイス』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』、ウフィツィ美術館『ウフィツィ美術館 公式サイト(作品解説)』
クロノスが切り落とした父ウラノスの性器が海に落ち、その周りに立った白い泡から生まれた。キュテラ島に近づき、キュプロス島に上陸した。ゼウスより古い世代の神になる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『イリアス』ではゼウスとディオネの娘。ディオメデスに傷つけられたアプロディテは母ディオネの膝に泣きつき、ゼウスから「戦はお前の仕事ではない、婚礼のことを受け持て」とたしなめられる。泡の話はホメロスには無い。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ヘシオドスは名を ἀφρός(泡)から説明する。語源辞典によれば、古代人はこの名を「泡」から説明したが、むしろフェニキア語など東方の言葉から来た名かもしれず、ビークスもキプロスのフェニキア語から入った可能性を挙げる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
『神統記』200 はアプロディテを φιλομμηδής「陰部を愛する者」と呼び、生まれ方に引っかけて説明する。ホメロスの定型句 φιλομμειδής「笑みを愛する者」との一字違いを利用した言葉遊び。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ヘシオドス『神統記』 前700年頃
息子アイネイアスを戦場から運び出そうとして、アテナに励まされたディオメデスに手首を突かれる。不死の者の血イコルが流れ、泣きながらオリュンポスへ帰る。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
戦場から救い出したパリスのもとへヘレネを行かせる。ヘレネが拒むと「私を怒らせるな、お前を捨てて憎ませることもできる」と脅す。ヘレネは黙って従う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アレスとの密通が太陽神ヘリオスに見つかり、夫ヘパイストスが作った見えない網に寝床ごと捕らえられて神々の笑いものになる。『オデュッセイア』の吟遊詩人デモドコスが歌う挿話。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
ゼウスによって人間アンキセスへの欲望を植え付けられ、イデ山で交わってアイネイアスを産む。讃歌では、女神が人間に恋させられる屈辱として語られる。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
アテナ、アルテミス、ヘスティアの三女神にだけは力が及ばない、と『アプロディテ讃歌』は言う。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
ゼウスを誘って眠らせようとするヘラが、老夫婦の神オケアノスとテテュスを仲直りさせたいと偽って愛と欲望を求めると、アプロディテは愛・欲望・睦言を縫い込んだ刺繍の帯を胸もとから外して渡す。トロイア方の女神の力が、ギリシャ方を助ける計略に使われる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アンキセスの前には、男を知らない乙女の姿で現れ、プリュギア王オトレウスの娘だと名乗る。事のあと正体を明かし、女神と交わったと人に言えばゼウスの雷に打たれる、と口止めする。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
網から放されたアプロディテは、キュプロスのパポスにある自分の聖域へ帰り、美の女神たち(カリテス)に湯浴みさせてもらう。見物に来たのは男神だけで、女神たちは恥じて家にとどまった。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
『神統記』933-937, 975 / 3.4.2
Met. 4.288-291 顔に父母どちらの面影もあり、名も両親から取った
933-937
パウサニアス9.31.2(ランプサコスの人々の言い伝え)、ディオドロス4.6.1
4.163「ウェヌスのダルダノスの孫」。1.691-694 ウェヌスが眠らせてイダリオンの森に隠す
Met. 10.644-651 キュプロス島タマソスの木の黄金の林檎3つ / 185
8.364-366 パポスでアプロディテを湯浴みさせ、神々の香油を塗る
Met. 10.270-294 ウェヌス(アプロディテ)の祭で祈り、像に命を与えられる
『ホメロス風讃歌』6番 5-13 海から上がったアプロディテに神々しい衣と金の飾りを着せる
『ピュティア祝勝歌』2.17「アプロディテの神官」
8.266-366
エンニウスの詩句(アプレイウス『ソクラテスの神霊について』2)とリウィウス22.10.9 のローマの十二柱。ギリシャの神に対応させた
『神統記』193-199、『オデュッセイア』8.362-363
摘要 3.2 パリスの判定により最終的にアプロディテのものとなる
摘要 3.2 ヘレネを約束して選ばれる
1.3.3 アドニスへの恋をからかって怒りを買い、罰として人間ピエロスに恋させられる
1.4.4 アレスと寝たことへの罰として、アプロディテがエオスを絶えず恋に落ちるようにした
1-22 恋と結婚を拒む彼に怒ったアプロディテが、罰を宣言する
4.29-31 人々がプシュケを女神のように崇めたためウェヌスが嫉妬し、息子に罰を命じる。6.10-21 で難題を課す
媚薬 / aphrodisiac性的欲求を高めるとされる薬・食べ物。ギリシャ語 aphrodisios「アフロディテに属する」から。英語では名詞が1719年、形容詞が1775年。
うお座 / Piscesうお座(魚座)は、尾をひもで結ばれた二匹の魚の姿で描かれる。この二匹は、愛の女神アプロディテとその息子エロスにまつわる魚だという。オウィディウスの『祭暦』によれば、ゼウスが天を守るために武器を取っていたころ、女神は怪物テュポンに追われ、幼い息子を連れて逃げて、ユーフラテス川のほとりに身を隠した。風が林をざわめかせると、女神は敵が来たと思って青ざめ、息子を胸に抱いて川へ飛び込んだ。そのとき二匹の魚が下にもぐりこみ、二人を背に乗せて救った。この魚が星の名になり、そのあたりの人々は罰当たりだとして魚を食べないのだという。ローマ時代のヒュギヌスの『天文譜』は少し違い、母子が自分で魚の姿に変わって難を逃れたと書く。英語の Pisces はラテン語 piscis「魚」の複数形で、古英語の終わりごろから使われている。
ヴィーナス / 金星 / Venusローマの愛と美の女神ウェヌスはアフロディテと同一視される。名はラテン語 venus「愛、欲望、美しさ」そのもので、惑星金星の名は英語で13世紀末から。古英語では金星を morgensteorra / æfensteorra(明けの星・宵の星)と呼んでいた。