『神統記』では、カオス、ガイア、タルタロスに続いて「不死の神々のなかで最も美しい」エロスが生じる。エロスは神々と人間の手足をなえさせ、心と思慮を打ち負かす力として描かれ、親は書かれていない。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃

Ἔρως神
翼を持つ少年の姿のエロス像。 『ファルネーゼのエロス』 作者不詳 ナポリ国立考古学博物館(inv. 6353)Public domain
翼の生えた幼い子が、弓を構えている。キューピッドと聞いて思い浮かぶのは、たいていそんな姿だろう。キューピッドのギリシャでの名はエロス。「エロチック」という言葉も、この神の名から来ている。
ギリシャ神話で最初に語られるエロスは、子どもどころか、世界で最も古い神々のひとりだった。
ヘシオドスの『神統記』によれば、はじめに混沌の空間カオスが生じ、次に大地ガイア、地の底のタルタロス、そしてエロスが現れた。不死の神々のなかで最も美しく、神々と人間の手足の力を奪い、胸の内の思慮を打ち負かす神。親の名は書かれていない。天も海も、まだ生まれる前の話である。
同じ『神統記』で、海の泡から愛の女神アプロディテが生まれると、エロスは欲望の神と並んで彼女に付き従い、神々の集まりへ向かった。ここでのエロスは、アプロディテの息子ではなく、年上の供である。
『イリアス』や『オデュッセイア』には、神としてのエロスは出てこない。「エロス」は、ゼウスがヘラを見て欲望に包まれた、といった箇所で、ただの「欲望」という言葉として使われるだけだ。
時代が下ると、エロスはアプロディテの子どもになり、どんどん幼くなっていく。紀元前3世紀の叙事詩『アルゴナウティカ』のエロスは、まるきりいたずらっ子だ。英雄イアソンを助けたい女神ヘラとアテナが、アプロディテに頼みに来る。遠い国の王女メデイアをイアソンに惚れさせてほしい、と。アプロディテはぼやいた。あの子は私の言うことなど聞かない、弓矢をへし折ってやりたいくらいだ。
母が探しに行くと、エロスはゼウスの果樹園で、ゼウスが天に連れてきた美少年と、黄金のさいころ遊びをしていた。勝ったさいころを手のひらいっぱいに握りしめ、負けた相手を大笑いしている。母は、ゼウスが幼いころに遊んだ、投げれば流れ星のように光の尾を引く黄金の鞠をあげると約束した。エロスはおもちゃを放り出して母の衣にしがみつき、今すぐちょうだいとせがんだ。
約束を取りつけると、エロスは矢筒を背負ってオリュンポスの門から地上へ降りた。霧に紛れて王の館に入り込み、イアソンのすぐ脇に忍び寄って、まだ誰も射たことのない矢をメデイアに放つ。矢は娘の胸の奥で炎のように燃え、エロス自身は高笑いしながら飛び去った。この恋が、のちに王女の国も家族も巻き込んでいく。
ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』では、エロスはラテン語でクピドと呼ばれ、ウェヌス(アプロディテ)の息子とされる。大蛇を射止めて得意になっていたアポロンが、子どもが弓など持って何になる、とからかった。クピドは言い返す。あなたの矢はすべてを射抜くだろうが、私の弓はあなたを射抜く。そして二本の矢を取り出した。恋を燃え上がらせる鋭い金の矢をアポロンに、恋を遠ざける鈍い鉛の矢を川の神の娘ダプネに。アポロンは恋に落ち、ダプネは逃げ出した。
さらに後、2世紀のアプレイウスが書いた物語では、エロスは恋をする側に回る。あまりに美しい人間の娘プシュケに嫉妬した母ウェヌスは、息子に命じる。あの娘を、世にも卑しい男に恋させなさい。ところが娘のもとへ行ったクピドは、自分がプシュケに恋をしてしまった。

クピドは妻にしたプシュケのもとへ、夜の闇の中でだけ通い、決して姿を見せなかった。夫は恐ろしい獣だ、と姉たちに吹き込まれたプシュケは、ある夜、灯火と刃物を手に寝台へ忍び寄る。照らし出されたのは、金の髪に、露に濡れた翼の、美しい神だった。足もとの矢を手に取った拍子に指先を刺し、プシュケは知らないうちに、恋の神そのものに恋をする。そのとき灯火から熱い油が一滴、神の右の肩に落ちた。目を覚ましたクピドは、飛び去ってしまう。母ウェヌスの怒りを買ったプシュケは、つらい試練を次々に課されるが、それを乗り越え、二人はやがて神々の王の前で正式に結ばれる。

世界の始まりの力から、母にせがむ子ども、恋に落ちる若者へ。エロスの姿は、書き手と時代によって大きく揺れている。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』、オウィディウス『変身物語』、アプレイウス『変身物語(黄金のろば)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
『神統記』では、カオス、ガイア、タルタロスに続いて「不死の神々のなかで最も美しい」エロスが生じる。エロスは神々と人間の手足をなえさせ、心と思慮を打ち負かす力として描かれ、親は書かれていない。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ヘレニズム期以降、エロスはアプロディテの息子として扱われるのが普通になる。アポロニオス『アルゴナウティカ』ではアプロディテが息子エロスを動かしてメデイアに矢を射させ、オウィディウスでは「ウェヌスの息子」クピドがアポロンを射る。
アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』 前3世紀、オウィディウス『変身物語』 8年頃
喜劇『鳥』では、黒い翼の夜が産んだ風の卵から黄金の翼のエロスが孵ったとされる。
アリストパネス『鳥』 前414年上演
プラトン『饗宴』でソクラテスが紹介するディオティマの話では、エロスはアプロディテ誕生の祝宴の夜に、ポロス(術策)とペニア(欠乏)のあいだにできた子。だからいつも何かを求めて欠けており、アプロディテの誕生日に宿ったので彼女に仕える、と説明される。同じ対話篇の前半では、ヘシオドスを根拠に「最古の神」とも論じられる。
プラトン『饗宴』 前4世紀前半
キケロ『神々の本性について』は、ギリシャの古い伝えとしてクピドが三人いたと紹介する。メルクリウスとディアナの子、メルクリウスとウェヌスの子、マルスとウェヌスの子(アンテロスと同じ)の三人。出自の説がいかに割れていたかを示す一節。
キケロ『神々の本性について』 前45年
アプレイウス『変身物語(黄金のろば)』の挿話では、クピドは母ウェヌスに命じられて美しすぎる娘プシュケに醜い男を恋させに行くが、自分が恋に落ちて彼女を妻にする。
アプレイウス『変身物語(黄金のろば)』 2世紀後半
同じ『神統記』で、海の泡から生まれたアプロディテが神々の集まりに向かうとき、エロスと欲望(ヒメロス)が付き従う。ヘシオドスではエロスはアプロディテより古く、息子ではなく従者である。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ホメロスでは ἔρος は「欲望」を表す普通名詞としてしか出てこず、翼のある神エロスは登場しない。たとえば『イリアス』でヘラを見たゼウスを「欲望が包んだ」と語る箇所。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『アルゴナウティカ』で、アプロディテはゼウスの果樹園でガニュメデスとさいころ遊びをしている息子エロスを見つけ、ゼウスが幼いころの玩具だった黄金の鞠を与えると約束してメデイアを射させる。アプロディテは、息子は自分の言うことを聞かないとこぼしている。
アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』 前3世紀
5.6「あなたの召し使いゼピュロス」、5.7、5.26
1.657-722 ウェヌスの命で、クピド(エロス)がアスカニウスの姿を借りてディドの膝に抱かれる
1.466-467
キューピッド / Cupid英語 Cupid(14世紀後半)は、ローマの恋の神クピド(Cupido)の名から。ラテン語 cupido は「欲望・恋・情熱」を意味する普通名詞で、動詞 cupere「欲する」から来ている。クピドはギリシャのエロスと同じ神とみなされた。日本の辞書は、キューピッドをウェヌス(ビーナス)の子で、弓矢を持つ裸の有翼の少年、その矢に当たった者は恋心を起こす、と説明する。人形のキューピー(Kewpie、1909年)は、イラストレーターのローズ・オニールが Cupid の愛称形を崩して作った名。唇の形をいう「キューピッドの弓(Cupid's bow)」は1858年から。
小惑星エロス(433 Eros)地球の近くまでやって来る小惑星の一つ。1898年8月13日、ベルリンのウラニア天文台のヴィットと、フランスのニースのシャルロワが、同じ日にそれぞれ見つけた。名前は、ギリシャ神話の愛の神エロスから。男の神の名を付けたのは、当時の小惑星の名づけの慣例から外れていた。アメリカ航空宇宙局(NASA)の探査機ニア・シューメーカーは、2000年のバレンタインデーにこの小惑星のまわりを回りはじめ、2001年2月12日に人類で初めて小惑星への着陸を果たした。愛の神の名をもつ星を回りはじめたのは、恋人たちの日だったことになる。
エロチック / erotic英語 erotic(1650年代)は、フランス語 érotique を経て、ギリシャ語 erōtikos「情熱的な愛による」から来ている。元は eros(属格 erotos)「性愛」で、これを神格化したのがエロス。フロイト派の「エロス(生の欲動)」の意味は1922年から。