ヘパイストスが青銅の斧でゼウスの頭を割り、アテナが鬨の声をあげて躍り出た、という有名な細部はヘシオドスには無く、ピンダロスに見える。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半

Ἀθηνᾶ神
兜をかぶって立つアテナの大理石像。 『マッテイのアテナ』 作者不詳 前1世紀〜後1世紀のローマの写し(元は前4世紀のギリシャの像。コモンズの説明による) ルーヴル美術館(Ma 530)。写真 Jastrow(2006年)Public domain
ギリシャの首都アテネ。古くはアテナイと呼ばれたこの町の守り神が、女神アテナである。
その生まれ方からして、ほかの神々とはまるで違っていた。
アテナは、母の胎内から生まれていない。父ゼウスの頭から、武装した姿で出てきた。

話はゼウスの最初の妻、メティスから始まる。『神統記』によれば、メティスは神々と人間の誰よりも賢かった。ところが大地の女神と天空の神が、ゼウスに忠告する。メティスからは賢い子が次々に生まれる。まず、父に劣らぬ力と思慮をもつ娘。その次には、神々と人間の王となる息子。
王座を奪われてはたまらない。ゼウスは身ごもったメティスを言葉巧みにだまし、自分の腹の中に呑み込んだ。息子は生まれずに終わり、娘だけが、やがてゼウス自身の頭から生まれた。『神統記』はこの娘を、鬨の声と戦いを好み、軍勢を率いる疲れ知らずの女王と呼んでいる。
鍛冶の神ヘパイストスが青銅の斧でゼウスの頭を割り、アテナが大声をあげて躍り出た。よく知られたこの場面は、『神統記』には無い。少し後の時代に、競技の勝者をたたえた詩人ピンダロスの作品に出てくる。
戦いの女神ではあるが、同じ戦の神アレスとは性質がまるで違う。アテナの持ち味は知恵と計略、そして機織りのような手仕事だった。『仕事と日』では、神々が最初の女パンドラを作ったとき、アテナが機織りを教え、身なりを整えてやっている。
アテナの名が最も大きく響くのは、トロイア戦争である。『イリアス』でアテナは、はっきりとギリシャ側に立つ。理由は『イリアス』の終わり近くで一度だけ語られる。トロイアの王子パリスはかつて、訪ねてきた女神たちを侮り、愛欲を与えてくれる女神を選んだ。アテナとヘラは、それを忘れていなかった。
『イリアス』の最初の山場で、もうアテナは動いている。総大将アガメムノンに侮辱されたアキレウスが、剣を抜きかけた。そのとき背後から、アキレウスの金髪をつかんで止めた者がいる。その姿は、アキレウス一人にしか見えなかった。怒りは言葉でぶつけるだけにせよ、いずれ三倍の贈り物が届く、とアテナは告げる。アキレウスは剣を鞘に戻した。
戦場では、英雄ディオメデスに力を吹き込み、目から霧を払って、神と人とを見分けられるようにした。人間が神を傷つける場面は『イリアス』でもめったにないが、ディオメデスは女神アプロディテの手を傷つけた。さらにアテナは自ら彼の戦車に乗り込み、ディオメデスが突き出した槍を、戦の神アレスの腹へ押し込んだ。のちの神々の戦いでは、アテナ自身が大きな石を投げつけて、アレスを地に倒した。
トロイアの総大将ヘクトルの最期にも、アテナの手が加わっている。アキレウスに追われて城のまわりを逃げるヘクトルの前に、彼の弟の姿で現れ、兄上、ここで二人で戦おうと声をかけた。ヘクトルは踏みとどまり、槍を投げた。二本目の槍を求めて振り返ると、弟の姿はどこにもない。神にだまされたと悟ったとき、もう逃げ道はなかった。
戦争が終わっても、アテナの仕事は続く。『オデュッセイア』で彼女が肩入れするのは、知恵の英雄オデュッセウスである。父の帰りを待つ息子のもとには、父の古い友人を名乗る客人の姿で現れ、父を探す旅へ送り出した。

20年ぶりに故郷イタケの浜に降ろされたオデュッセウスの前には、若い羊飼いの姿で現れる。ここがどこか分からない彼は、正体を隠して長い作り話をした。アテナはほほえみ、女の姿に戻って言う。人間の中で知略と弁舌に最も優れているのがお前なら、神々の中で知恵と策略で名高いのは私だ。それなのに、いつもそばにいた私に気づかなかったのか、と。そして、そういう用心深さがあるからこそお前を見捨てられない、とも言った。そのうえで彼をみすぼらしい老人の姿に変え、求婚者たちへの復讐の段取りを整えた。物語の最後、求婚者を討った一家と遺族との争いを止めたのも、アテナだった。
アテナは都市アテナイの守り神でもある。アポロドーロスによれば、アテナイ一帯の土地をめぐって、海の神ポセイドンと争った。ポセイドンは三叉の矛でアクロポリスを打ち、海水の泉を湧かせた。アテナはこの土地の王を証人に立てて、オリーブの木を植えた。裁いたのは12の神々で、先にオリーブを植えたと王が証言したため、土地はアテナのものになった。怒ったポセイドンは、近くの平野を海に沈めたという。

同じアテナイには、少し奇妙な話も残る。武具を作ってもらおうとヘパイストスを訪ねたアテナは、彼に言い寄られて逃げた。こぼれた精を羊毛でぬぐって地に捨てると、そこから子が生まれた。のちにアテナイの王となる子である。アテナはこの子を箱に入れ、開けてはならないと言い添えて、王の娘に預けた。
手仕事の女神としての姿がいちばん鮮やかなのは、ローマの詩人オウィディウスが語るアラクネの話だろう。機織りの腕を誇り、女神にも負けないと言い放った娘と、アテナは本当に腕を競った。アラクネが織り上げた布には、神々が姿を変えて人間の娘をだました場面が並んでいた。非の打ちどころのない出来に怒った女神は布を引き裂き、娘は蜘蛛に変えられた。

ちなみに、女神の名アテナと都市の名アテナイ。どちらが先にあったのかは、古代から議論が続いている。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、ヘシオドス『仕事と日』、ピンダロス『祝勝歌集』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
ヘパイストスが青銅の斧でゼウスの頭を割り、アテナが鬨の声をあげて躍り出た、という有名な細部はヘシオドスには無く、ピンダロスに見える。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半
ポセイドンとアテナイの守護神の座を争い、オリーブの木を生やして勝った。都市名アテナイと神名の先後関係は古代から論じられてきたが、決着していない。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
機織り比べでアラクネを蜘蛛に変える話はオウィディウスで語られる。ギリシャの古い叙事詩には見えない逸話である。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
神名 Ἀθήνη と都市名 Ἀθῆναι(複数形)のどちらが先かは古代から論じられてきた。現在は「神が都市にちなむ」とする見方が優勢で、語尾 -ene が地名には多く人名には稀であることが根拠とされる。都市名 Ἀθῆναι 自体はギリシャ語以前の言語に遡る可能性が高いとされる。
ヴァルター・ブルケルト『ギリシャの宗教』 1977年(英訳1985年)、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
ゼウスが妻メティスを身ごもったまま呑み込んだため、後にゼウス自身の頭から生まれた。ヘシオドスは「父に等しい力と思慮を持つ」と書く。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『イリアス』最初の場面で、アガメムノンを斬ろうとしたアキレウスの金髪を後ろから掴んで止める。姿はアキレウスにしか見えない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ディオメデスに神を見分ける目を与え、アプロディテを傷つけることを許し、後には自ら彼の戦車に乗ってアレスに槍を突き立てさせる。『イリアス』で人間が神を傷つけるこの場面は、アテナの後押しで起きる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ヘクトルの弟デイポボスに化けて「共に戦おう」と声をかけ、ヘクトルに踏みとどまらせたうえで姿を消す。ヘクトルは槍を投げ尽くしてから欺かれたと悟る。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『オデュッセイア』ではオデュッセウスの保護者として最も頻繁に現れ、姿を変え、彼を老人に変装させ、最後に求婚者殺しの後の争いを止める。知恵の神が知恵の英雄を選ぶ関係が明示される。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
ゼウスがメティスを呑み込んだのは、ガイアとウラノスの忠告による。メティスからはまず父に劣らぬ力と思慮をもつ娘が、次に神々と人間の王となる息子が生まれる定めだった。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
イタケの浜で若い羊飼いの姿でオデュッセウスに会い、彼の作り話を聞いてほほえむ。女の姿に戻り、神々の中では自分が、人間の中では彼が知恵と策略に優れていると言う。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
神々の戦いの場面で、アテナは大きな石をアレスの首に投げつけて倒す。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
3.14.6。ヘパイストスに襲われかけ、その精から大地にエリクトニオスが生まれる
1.23.4 アクロポリスでヒュギエイア像と「ヒュギエイア(健康)」の添え名をもつアテナ像が並ぶ
1.22.4 アクロポリスの門の右手に「翼のない勝利の女神」の神殿。1.24.7 パルテノンのアテナ像は右手に高さ4ペーキュスほどのニケ像を載せる
『慈しみの女神たち』681-710。アテナが法廷を設けて彼を裁く
4.390, 5.800-808, 10.284-291 アテナが常に助け手として付き添った
1.9.23 カドモスがテバイでまいた竜の歯の半分
3.10.3 アテナからゴルゴンの血管から流れた血を授かる。左側の血は人を滅ぼし、右側の血で死者を生き返らせた
『オリュンピア祝勝歌』13.65-69 夢で黄金の手綱を授かる
2.4.2 アテナに導かれて首を斬り、2.4.3 ゴルゴンの首をアテナに捧げる。アテナはそれを盾(アイギス)の中央に付けた
3.4.1 竜の歯をまけと勧める / Met. 3.101-105
2.1.4 アテナの勧めで父ダナオスが最初の船を造り、娘たちを乗せて逃れる / 2.1.5 アテナとヘルメスが殺人の穢れを清める
『慈しみの女神たち』778-1047 アテナの説得を受け入れ、アテナイに祀られる
『イリアス』8.362-365 アテナが難業のたびに助けた、『神統記』318 ヒュドラ退治は「アテナの計らいで」、『オデュッセイア』11.626 ケルベロスを連れ出す際にヘルメスとアテナが導いた
2.267-268、22.205-210、24.502-503 アテナが繰り返しこの人物の姿と声を借りる
5.250-263 ヘリコン山を訪れたミネルウァ(アテナ)を、ムーサを代表して迎える
エンニウスの詩句(アプレイウス『ソクラテスの神霊について』2)とリウィウス22.10.9 のローマの十二柱。ギリシャの神に対応させた
アポロニオス 1.18-19, 1.111-114 アテナ自身が造り、アルゴスがその指示で組み立てた。アポロドーロス 1.9.16
3.12.3 アテナが、誤って死なせた遊び友達パラス(トリトンの娘)に似せて作った像
8.493 エペイオスがアテナの助けで造ったとされる
パウサニアス1.24.5 パルテノン、1.26.6 アテナの像
『イリアス』2.446-449、5.738-742、『オデュッセイア』22.297、ヒュギヌス『天文譜』2.13.7 ゼウスがアテナに譲る
アポロドーロス 3.14.1 十二神がアテナに土地を与えた。ヘロドトス 8.55
3.14.1
1.6.1-2 ヘラクレスを呼び寄せ、エンケラドスにシチリア島を投げつける
摘要 3.2 戦いの勝利を約束する
『オデュッセイア』3.135-136 アテナの怒りがアトレウスの二人の子を争わせる。『ノストイ』プロクロス要約。アポロドロス『摘要』6.5-6
3.14.1。アテナが先にオリーブを植えたと証言し、アテナの勝ちの根拠になった
ミネルヴァ書房 / ミネルヴァ(Minerva)京都の学術書の出版社ミネルヴァ書房は1948年の創業。会社は公式に、社名の由来はローマ神話の知恵や教養の女神ミネルヴァで、女神のかたわらにいるフクロウをトレードマークにしている、と説明している。ミネルヴァは、ユピテル、ユノと並ぶローマの三大神の一柱で、技芸と学問、知恵の女神。のちにギリシャのアテナと同じ女神とみなされた。名前は「考える」「覚えている」を意味する古い語根にさかのぼり、英語の mind(心)とも親戚にあたると語源辞典は説明する。