ギリシャ神話の地図
ゼウス父アポロン兄ディオニュソス弟オデュッセウス英雄ペルセポネ女神パンドラ最初の女プリアモス導いた王イオ娘
片手を上げて語りかける、弁論のヘルメス像。

ヘルメス

Ἑρμῆς神

片手を上げて語りかける、弁論のヘルメス像。 『弁論のヘルメス(ヘルメス・ロギオス)』 作者不詳 1世紀末〜2世紀初めのローマの写し(元は前5世紀のギリシャの像。コモンズの説明による) アルテンプス宮(ローマ国立博物館)。写真 Jastrow(2006年)Public domain

夜明けに生まれ、昼には竪琴を弾き、夕方には兄の牛を盗んでいた。神々をたたえる古代の詩『ヘルメス讃歌』は、神ヘルメスが生まれた最初の一日を、そうまとめている。

英語では、この神をマーキュリーと呼ぶ。ローマの商いの神の名で、その神と重ねられたのがヘルメスだった。太陽のいちばん近くを回る惑星の水星も、常温で流れる金属の水銀も、英語では同じマーキュリーである。

ヘルメスはゼウスの息子である。ゼウスの子を身ごもったのは、天を支える巨人アトラスの娘だった。彼女はギリシャ南部の山の洞窟で、ひっそりとこの子を産んだ。

赤ん坊は、産着にくるまれてじっとしていなかった。ゆりかごを抜け出して洞窟の入口まで出ると、一匹の亀に出会う。ヘルメスはこれを捕まえて中身をかき出し、甲羅に葦を差し、牛の皮を張り、羊の腸で弦を七本かけた。こうして竪琴ができあがった。弾いてみると、見事な音が鳴った。

日が傾くと、腹が空いた。ヘルメスが目をつけたのは、兄アポロンが飼う神々の牛だった。群れから50頭を引き離すと、足跡で行き先がばれないよう、牛を後ろ向きに歩かせた。自分は小枝を編んだ奇妙な履物を作って、足跡そのものをごまかした。牛を遠い川のほとりまで追っていくと、2頭を屠って肉を焼き、12に分けて神々に供えた。夜明け前には家に戻り、秋のそよ風か霧のように鍵穴をすり抜けて、何食わぬ顔でゆりかごに収まった。

牛がいないことに気づいたアポロンは、道で出会った老人の話と鳥の兆しから盗人の正体を突き止め、洞窟に乗り込んでくる。ヘルメスの言い分はこうだった。牛なんて見たことも聞いたこともない。ぼくは昨日生まれたばかりで、足はやわらかいし、地面はごつごつしている、と。

話はゼウスの前に持ち込まれた。赤ん坊がしれっと罪を否認するのを見て、ゼウスは声をあげて笑い、二人に仲直りして牛を探しに行けと命じた。牛の隠し場所へ案内したヘルメスは、そこで竪琴を取り出して歌ってみせる。その音色にアポロンは心を奪われた。

取り引きが成立した。竪琴はアポロンのものになり、ヘルメスは牛の群れの番人の役目と、富をもたらす三つ叉の黄金の杖を与えられた。のちに竪琴がアポロンの楽器として知られるのは、この交換のためである。讃歌の終わりで、ゼウスはさらにヘルメスを、冥界の王ハデスのもとへ行ける唯一の使者に定めた。

牛の群れのそばで、ヘルメス(右)がアポロンに竪琴を渡す。この交換で、兄弟は仲直りした。
牛の群れのそばで、ヘルメス(右)がアポロンに竪琴を渡す。この交換で、兄弟は仲直りした。『メルクリウスがアポロンに竪琴を与える風景』 リチャード・アーロム(クロード・ロランの素描による版画) 1777年 アムステルダム国立美術館CC0

こうしてヘルメスは、境目を越える神になった。天と地、神と人、そして生者と死者のあいだを行き来する。

『イリアス』の終わりでは、トロイアの老王プリアモスが、息子ヘクトルの遺体を返してもらうため、夜にギリシャ軍の陣営へ向かう。敵のただ中を無事に通したのが、若者の姿をとったヘルメスだった。見張りを眠らせ、門を開け、アキレウスの小屋まで老王を導いた。

『オデュッセイア』では、ゼウスの伝令として女神カリュプソの島へ向かう。足には、海の上も果てしない陸の上も風のように運んでくれる、不死の黄金のサンダル。手には、望む者の目を眠らせ、眠る者を目覚めさせる杖。届けたのは、オデュッセウスを解放せよという命令だった。魔女キルケの館へ向かうオデュッセウスには、途中で若者の姿で現れ、魔法の薬を効かなくする草モーリュを手渡した。そして物語の結末近くでは、黄金の杖を手に、殺された求婚者たちの魂を冥界へ導いていく。魂の群れは、コウモリのようにきいきい鳴きながらついていった。

ヘルメスが女神カリュプソに、ゼウスの命令を伝える。オデュッセウスを故郷へ帰せ、と。
ヘルメスが女神カリュプソに、ゼウスの命令を伝える。オデュッセウスを故郷へ帰せ、と。『オデュッセウスを帰すようカリュプソに命じるヘルメス』 ジェラール・ド・ライレッセ 1670年ごろPublic domain

ヘルメスには「アルゴス殺し」という呼び名がある。アルゴスとは、全身に目を持つ見張り番のことだ。ゼウスが愛した娘は牝牛に変えられ、女神ヘラの命でアルゴスに見張られていた。ヘルメスはゼウスに命じられて牛を盗み出そうとし、石を投げてアルゴスを殺した。ローマの詩人オウィディウスでは、笛の音と長い話でアルゴスのすべての目を眠らせてから首をはねている。

眠りこんだ見張り番アルゴスに、ヘルメスが忍び寄る。後ろには、牝牛に変えられた娘。
眠りこんだ見張り番アルゴスに、ヘルメスが忍び寄る。後ろには、牝牛に変えられた娘。『メルクリウスとアルゴス』 ディエゴ・ベラスケス 1659年 プラド美術館Public domain

『仕事と日』によれば、最初の女パンドラに、ずる賢い心と偽りの言葉を吹き込んだのもヘルメスだった。そしてこの神は、盗人と商人の守り神でもある。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『仕事と日』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』

この物語の人々

ローマ以後の語り

ローマ名メルクリウスはラテン語 merx(商品)・mercari(商う)と同語根で、英語 market も同系。ギリシャのヘルメスとの同一視より前から、商人と盗人の神という性格を持っていた。語源の節も参照。

ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)

ゼウスの命でイオを盗み出そうとし、見張りのアルゴスを石で殺したため「アルゲイポンテス」と呼ばれた、とアポロドーロスは説明する。オウィディウスでは笛と話でアルゴスを眠らせてから首をはねる。

オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

もっと詳しく

アルカディアのキュレネ山の洞窟でマイアが産んだ。讃歌は「夜明けに生まれ、昼には竪琴を弾き、夕にはアポロンの牛を盗んだ」と一日の出来事にまとめる。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

洞窟の入口で出会った亀を捕らえ、甲羅に葦と牛の皮と羊の腸を張って竪琴(リュラ)を作った。最初の弦楽器の発明とされる。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

アポロンの牛五十頭を盗み、蹄の跡が逆向きになるように歩かせ、自分は枝で編んだ履物を履いて足跡を消した。赤子でありながら周到な盗人として描かれる。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

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ゼウスの前での裁きを経て、アポロンに竪琴を譲り渡し、その代わりに牛の群れと牧杖を得た。竪琴がアポロンの楽器になるのはこの交換による。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

讃歌の末尾で、ゼウスはヘルメスを不死の神々のうちハデスへの唯一の使者と定める。冥界へ行き来できる神という役目がここで確立する。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

『イリアス』最終巻で、若者の姿を取って老王プリアモスをアキレウスの陣営まで導き、帰りも送り届ける。敵陣を無事に通す「境を越えさせる神」としての典型。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

『オデュッセイア』最終巻の冒頭で、黄金の杖を手に殺された求婚者たちの魂を呼び集め、コウモリのように鳴く魂の群れを冥界へ導く。

ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃

オデュッセウスにキルケの薬を無効にする草モーリュを与える。「神々はこれをモーリュと呼ぶ。人間には掘り取るのが難しい」とホメロスは書き、神の言葉と人間の言葉を区別する珍しい箇所でもある。

ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃

アポロンに牛泥棒を責められると、赤子のヘルメスは「昨日生まれたばかりで、足はやわらかく地面は固い」と言い逃れる。ゼウスはこの否認を見て声をあげて笑う。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

盗んだ牛のうち2頭を屠って肉を12に分けて供え、夜明け前に鍵穴を霧のようにすり抜けてゆりかごに戻る。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

竪琴と引き換えに、アポロンから牛の番人の役目と、三つ叉の黄金の杖を与えられる。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

ほかのつながり(28人)

家族・恋愛

  • ケパロス子

    3.14.3。ヘルメスとケクロプスの娘ヘルセの子。アポロドーロスはプロクリスの夫(デイオンの子)とは別人として書く(claim 参照)

  • エウアンドルス子

    8.138-141 アイネイアスが「あなた方の父はメルクリウス」と言い、両家がともにアトラスにさかのぼる親戚だと説く

  • ヘルマプロディトス子

    Met. 4.288「メルクリウスとキュテラの女神の子」、4.368「アトラスの孫(アトランティアデス)」と呼ばれる

  • パン子

    『パン讃歌』(19)1, 28-40。ヘロドトス 2.145

  • マイア親

    『神統記』938-939、「ヘルメス讃歌」1-19、『オデュッセイア』14.435、アポロドーロス3.10.2

  • プレイアデス親

    長姉マイアがゼウスとのあいだにキュレネの洞窟でヘルメスを生む。アポロドーロス 3.10.2 /『神統記』938「アトラスの娘マイア」

  • ニンフ愛人・交わった相手

    『アプロディテ讃歌』262-263 山のニンフたちはシレノスやヘルメスと洞窟で交わる

  • ケクロプス義理の親

    アポロドーロス 3.14.3 娘ヘルセがヘルメスの子を産む。『変身物語』2.708-832 ではヘルセに恋したメルクリウスを姉アグラウロスが妨げ、石にされる

敵対・殺害

  • レト敵対

    21.497-501。神々の戦いで対戦相手に当てられるが、ヘルメスは「女神と争うのは分が悪い」と戦いを辞退する

  • テュポン敵対

    1.6.3 テュポンが切り取ってコリュキオンの洞窟に隠したゼウスの腱を、ヘルメスとアイギパンが盗み出す

仲間・師弟

出来事・場所・物

今の言葉に残る

ハーメチック / hermetic(密閉した)「完全に密閉した」を意味する英語 hermetic(ハーメチック)は、神々の使者ヘルメスの名から来ている。ただし直接の由来は、ギリシャの神そのものではない。語源辞典によれば、新プラトン主義者や神秘家、錬金術師は、ヘルメスをエジプトの神トトと重ね合わせて「三倍偉大なヘルメス(ヘルメス・トリスメギストス)」と呼び、この人物が秘密の封を使ってガラス管を気密に閉じる錬金術の技を編み出したと考えた。そこから「すっかり封じた」という意味が生まれ、1600年ごろには hermetically sealed(ぴったり密封された)という言い方の中に現れる。神秘学・錬金術に関わるという意味の hermetic は1630年代から。

リリック・歌詞(lyric, lyrics)歌の歌詞を英語で lyrics という。もとは lyric で、ギリシャ語の lyrikos「竪琴(リュラ)に合わせて歌う」から来ている。英語では1580年代から、歌うのにふさわしい叙情的な詩を指し、流行歌の歌詞の意味は1876年から記録がある。その竪琴を最初に作ったのは、生まれたばかりの神ヘルメスだった。『ヘルメス讃歌』によれば、赤ん坊のヘルメスはゆりかごを抜け出して一匹の亀を見つけ、甲羅に葦を差し、牛の皮を張り、羊の腸で弦を張って竪琴に仕立てた。のちにこの竪琴は兄のアポロンに贈られる。

メルカリ(社名)フリマアプリ「メルカリ」の名は、ラテン語の動詞 mercari「取引する、商いする」と同じ形で、ラテン語研究者の本もこの語の例に挙げている。mercari は merx「商品」から出た語で、英語の market もここから来ている。商人の神メルクリウス(ギリシャのヘルメスと同一視)も同じ系統の名とされる。会社の公式サイトには、名前の由来の説明は見当たらなかった。

マーキュリー / 水星 / 水銀ローマの神メルクリウスはヘルメスと同一視されるが、名はラテン語 merx「商品」から来たとされ(エトルリア語から来たとする説もある)、もとは商人と盗人の神だった。天を速く駆けるこの使者の名は、太陽系のいちばん内側を速く回る惑星(水星)に与えられた。中世には金属を惑星に対応させたので、水銀もこの名で呼ばれるようになった。日本語の「水銀」は、ラテン語のもう一つの名 hydrargyrum(ギリシャ語の「水」と「銀」)と同じ組み立てで、メルクリウスとのつながりは無い。

マーキュリー計画 / Project Mercuryアメリカが初めて人間を宇宙へ送った計画が、マーキュリー計画である。NASAの公式の歴史によると、名前を決めるとき、現場の責任者は宇宙飛行士の存在を前に出す「プロジェクト・アストロノート」を推したが、乗る人の個性ばかりが注目されかねないとして退けられた。代わりにNASAのシルバースタインが推したのが、神々の使者メルクリウス、つまりギリシャのヘルメスだった。ゼウスの息子で、翼のあるサンダルと兜と杖を持つこの神は、アメリカ人にいちばんなじみのあるオリュンポスの神で、象徴としてこれ以上ない、と考えられた。1958年11月26日に名前が決まり、ライト兄弟の初飛行から55年目の12月17日に発表された。同じ本は、神話にくわしい人に相談していたら、この神が盗みの名人で商売の神でもあることが笑い話になって、名前は通らなかったかもしれない、とも書いている。さらに、神々の伝令としての役目を果たしてくれるのか、それとも死者を冥界へ送る役目のほうなのかとギリシャ人なら気をもむところだが、アメリカ人はそんな心配はしないだろう、と冗談めかしている。

呼び名の話

この話が出てくる作品

星座になった話

次に読む

このページの出典(14件)
  1. 前8世紀頃ホメロス『イリアス』
  2. 前8世紀頃ホメロス『オデュッセイア』
  3. 前700年頃ヘシオドス『神統記』
  4. 前700年頃ヘシオドス『仕事と日』
  5. 前7〜6世紀頃作者不詳『ホメロス風讃歌』
  6. 前7世紀頃作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』
  7. 前430年頃ヘロドトス『歴史』
  8. 前1世紀末リウィウス『ローマ建国以来の歴史』
  9. 前19年頃ウェルギリウス『アエネイス』
  10. 8年頃オウィディウス『変身物語』
  11. 1〜2世紀頃アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
  12. 2世紀アプレイウス『ソクラテスの神霊について』
  13. 1984-94年刊、随時改訂(2026年9月閲覧)小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』
  14. 2001年〜(2026年9月閲覧)ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』