病院で使う注射器のことを、英語で syringe(シリンジ)という。もとをたどると、ギリシャ語で「管」や「牧人の笛」を意味する言葉に行き着く。その笛の名は、ギリシャ神話では、葦に姿を変えた一人のニンフの名でもあった。シュリンクスである。
笛とニンフ、どちらが先だったのか。その話を見ていこう。
この変身の話をくわしく語るのは、ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』だ。しかも話の置かれ方が変わっている。伝令神ヘルメスが、百の目をもつ番人を眠らせるために語って聞かせる物語なのである。
右端で伝令神ヘルメスが話を語り、左奥では牧神パンが娘を追っている。『パンとシュリンクスの話を語るメルクリウス(右)』 ジュリオ・ボナゾーネ 1531〜1576年 メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)シュリンクスは、ギリシャ南部の山国アルカディアに住む水のニンフだった。半獣の森の神々に何度言い寄られても、いつもかわしてきた。狩りの女神アルテミスを慕って処女を守り、女神と同じ装いで狩りをしていたので、弓が角でできているか金でできているかの違いがなければ、女神と見間違えるほどだったという。
ある日、山から戻るところを、松の冠をかぶった牧神パンに見つかった。パンが言い寄ると、シュリンクスは道のない野を逃げた。行く手を、砂の多い川がふさぐ。シュリンクスは、川の姉妹たちに、どうか私の姿を変えて、と祈った。
パンが、ついに捕まえたと思って腕に抱いたのは、ニンフの体ではなく、沼の葦だった。パンがため息をつくと、その息が葦の中を通り、嘆くようなかすかな音が鳴った。音の甘さに心を打たれたパンは言った。これでおまえといつまでも語り合える。そして長さの違う葦を蝋でつなぎ合わせ、笛を作って、娘の名をそのまま笛の名にした。
この話を最後まで聞いた者はいなかった。ヘルメスが話を始めたところで、百の目の番人は目を一つ残らず閉じて眠りこみ、語り終える前に首をはねられてしまうからだ。
一方、楽器としての笛は、ニンフの話よりずっと古くから記録がある。『イリアス』に描かれた英雄アキレウスの盾には、笛を吹いて楽しむ牧人たちの姿が刻まれている。『ホメロス風讃歌』では、竪琴を光の神アポロンに譲ったヘルメスが、代わりに遠くまで響く笛を作る。どちらにも、笛になったニンフの話は出てこない。
2世紀ごろの恋愛小説『ダプニスとクロエ』では、老いた牧人が、もう一つの形を語っている。そこでのシュリンクスは、山羊を飼う歌の上手な娘で、山羊でも人間でもない者の恋人にはならないとパンを笑い、追われて葦の茂みに消えた。パンが作った笛の葦の長さが不ぞろいなのは、二人の恋が釣り合わなかったからだ、と老人は話を結んでいる。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、オウィディウス『変身物語』、ロンゴス『ダフニスとクロエ』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』