ギリシャ神話の地図
パン追っ手アルテミス憧れヘルメス語り手ニンフ姉妹イオ囚われアキレウス盾の主
パンとシュリンクス。フランソワ・ブーシェの作。

シュリンクス

Σῦριγξ神

パンとシュリンクス。フランソワ・ブーシェの作。 『パンとシュリンクス』 フランソワ・ブーシェ 1759年Public domain

病院で使う注射器のことを、英語で syringe(シリンジ)という。もとをたどると、ギリシャ語で「管」や「牧人の笛」を意味する言葉に行き着く。その笛の名は、ギリシャ神話では、葦に姿を変えた一人のニンフの名でもあった。シュリンクスである。

笛とニンフ、どちらが先だったのか。その話を見ていこう。

この変身の話をくわしく語るのは、ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』だ。しかも話の置かれ方が変わっている。伝令神ヘルメスが、百の目をもつ番人を眠らせるために語って聞かせる物語なのである。

右端で伝令神ヘルメスが話を語り、左奥では牧神パンが娘を追っている。
右端で伝令神ヘルメスが話を語り、左奥では牧神パンが娘を追っている。『パンとシュリンクスの話を語るメルクリウス(右)』 ジュリオ・ボナゾーネ 1531〜1576年 メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)

シュリンクスは、ギリシャ南部の山国アルカディアに住む水のニンフだった。半獣の森の神々に何度言い寄られても、いつもかわしてきた。狩りの女神アルテミスを慕って処女を守り、女神と同じ装いで狩りをしていたので、弓が角でできているか金でできているかの違いがなければ、女神と見間違えるほどだったという。

ある日、山から戻るところを、松の冠をかぶった牧神パンに見つかった。パンが言い寄ると、シュリンクスは道のない野を逃げた。行く手を、砂の多い川がふさぐ。シュリンクスは、川の姉妹たちに、どうか私の姿を変えて、と祈った。

パンが、ついに捕まえたと思って腕に抱いたのは、ニンフの体ではなく、沼の葦だった。パンがため息をつくと、その息が葦の中を通り、嘆くようなかすかな音が鳴った。音の甘さに心を打たれたパンは言った。これでおまえといつまでも語り合える。そして長さの違う葦を蝋でつなぎ合わせ、笛を作って、娘の名をそのまま笛の名にした。

この話を最後まで聞いた者はいなかった。ヘルメスが話を始めたところで、百の目の番人は目を一つ残らず閉じて眠りこみ、語り終える前に首をはねられてしまうからだ。

一方、楽器としての笛は、ニンフの話よりずっと古くから記録がある。『イリアス』に描かれた英雄アキレウスの盾には、笛を吹いて楽しむ牧人たちの姿が刻まれている。『ホメロス風讃歌』では、竪琴を光の神アポロンに譲ったヘルメスが、代わりに遠くまで響く笛を作る。どちらにも、笛になったニンフの話は出てこない。

2世紀ごろの恋愛小説『ダプニスとクロエ』では、老いた牧人が、もう一つの形を語っている。そこでのシュリンクスは、山羊を飼う歌の上手な娘で、山羊でも人間でもない者の恋人にはならないとパンを笑い、追われて葦の茂みに消えた。パンが作った笛の葦の長さが不ぞろいなのは、二人の恋が釣り合わなかったからだ、と老人は話を結んでいる。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、オウィディウス『変身物語』、ロンゴス『ダフニスとクロエ』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』

この物語の人々

ローマ以後の語り

オウィディウスの形: アルカディアの山のナイアスで、サテュロスたちや森の神々の求愛をいつもかわし、処女神ディアナを慕って暮らしていた。リュカイオン山から戻るところを松の冠のパンに見つかり、言い寄られて逃げる。砂の多いラドン川に行く手をふさがれ、水の姉妹たちに姿を変えてくれるよう祈った。パンが捕まえたと思ったとき、腕の中にあったのは沼の葦だった。ため息が葦を鳴らしてかすかな嘆きのような音を出し、パンは「これでお前と語り合える」と、長さの違う葦を蝋でつないで笛を作り、娘の名をとどめた。

オウィディウス『変身物語』 8年頃

この話は、ゼウスに愛されて牝牛にされたイオを見張る、百の目の番人アルゴスを眠らせるために、メルクリウス(ヘルメス)が語り聞かせる物語として置かれている。メルクリウスが語り始めたところでアルゴスの目がすべて閉じ、話の後半は「語るはずだった」内容として間接話法で要約される。語り終えないうちに番人は首をはねられる。

オウィディウス『変身物語』 8年頃

2世紀頃のロンゴス『ダプニスとクロエ』では、老牧人ラモンがシチリアの山羊飼いから聞いた話として語る。シュリンクスは歌の上手な美しい乙女で、山羊を飼い、ニンフと遊んでいた。「山羊でもなく人間でもない者」を恋人にはしないとパンを笑い、追われて葦の茂みに隠れ、沼に消えた。パンは怒って葦を切り、わけを悟って楽器を思いつき、長さの違う葦を蝋でつないだ。恋が釣り合わなかったように、葦の長さも釣り合わない、と結ぶ。

ロンゴス『ダフニスとクロエ』 2世紀頃

ギリシャ語 syrinx は「牧人の笛」「管」の意味で、動詞 syrizein(笛を吹く、口笛を吹く)と同じ語根。ここから後期ラテン語 syringa を経て、液体を吸って押し出す細い管、今の注射器 syringe(英語では15世紀初め)が生まれた。皮下注射の針を指すのは1884年から。鳥の発声器官「鳴管」も1872年から syrinx と呼ばれる。

ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)

もっと詳しく

楽器のシュリンクスはニンフの話よりずっと古くから記録がある。『イリアス』のアキレウスの盾には、シュリンクスを吹いて楽しむ牧人が描かれ、トロイア勢の陣の笛と管の音も聞こえる。『ヘルメス讃歌』では、竪琴をアポロンに譲ったヘルメスが、遠くまで響くシュリンクスを新たに作る。ホメロスやホメロス風讃歌にはニンフのシュリンクスは出てこない。現存する資料でニンフの変身譚を語るのは、オウィディウスが古いほうとされる。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃、オウィディウス『変身物語』 8年頃

今の言葉に残る

シリンジ(注射器)・鳴管 / syringe, syrinxギリシャ語 syrinx は「牧人の笛、管」で、動詞 syrizein(笛を吹く、口笛を吹く)と同じ語根。その対格 syringa が後期ラテン語に入り、英語 syringe(15世紀初め、液体を吸い込んで押し出す細い管)になった。皮下注射の注射器を指すのは1884年から。鳥の発声器官「鳴管」を syrinx と呼ぶのは1872年から。オウィディウスはこの笛の名を、パンに追われて葦になったニンフ、シュリンクスの名の由来として語る。

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このページの出典(5件)
  1. 前8世紀頃ホメロス『イリアス』
  2. 前7〜6世紀頃作者不詳『ホメロス風讃歌』
  3. 8年頃オウィディウス『変身物語』
  4. 2世紀頃ロンゴス『ダフニスとクロエ』
  5. 2001年〜(2026年9月閲覧)ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』