ギリシャ神話の地図
ヘルメス父シュリンクス恋した娘ペネロペイア異伝の母ディオニュソス喜んだ神エコーこだまアポロン教え子プシュケ慰めた娘
山羊の脚を持つパン(左)が、少年ダプニスに笛を教える大理石像。

パン

Πάν神

山羊の脚を持つパン(左)が、少年ダプニスに笛を教える大理石像。 『ダプニスに笛を教えるパン』 ロドスのヘリオドロスの像の写し アルテンプス宮(ローマ国立博物館)。写真 Jastrow(2006年)Public domain

突然の恐怖に人がわれを忘れて騒ぎ出すことを「パニック」という。この言葉のもとをたどると、ギリシャ神話の牧神パンに行き着く。山や野で、群れや人々を理由もなく襲う得体の知れない恐怖は、「パンの恐れ」と呼ばれていた。

ホメロス風讃歌と呼ばれる古い讃歌集の『パン讃歌』によれば、パンは伝令神ヘルメスの息子である。生まれたときから、山羊の脚と二本の角と髭を持っていた。赤子の顔を見た乳母は、驚いて逃げ出してしまう。ところが父ヘルメスは大喜びで、赤子を野兎の毛皮にくるみ、神々の住むオリュンポスへ連れて行った。神々はみな喜び、中でも酒の神ディオニュソスがひときわ喜んだ。みなを喜ばせたので「パン」と名付けられた、と讃歌は語る。ギリシャ語で「みな」を意味する言葉とかけた語呂合わせである。

右で伝令の神ヘルメスが、パンとニンフの話を語っている。左奥には、娘を追うパンの姿。
右で伝令の神ヘルメスが、パンとニンフの話を語っている。左奥には、娘を追うパンの姿。『パンとシュリンクスの話を語るメルクリウス(右)』 ジュリオ・ボナゾーネ 1531〜1576年 メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)

パンの住みかは、ギリシャ南部の山深いアルカディア地方。羊飼いと家畜の群れを守り、山から山へと駆け回り、夕暮れには葦の笛を吹く。

その笛にまつわる話を、ローマの詩人オウィディウスが伝えている。パンは、狩りの女神アルテミスを慕って純潔を守るニンフの娘に恋をして追いかけた。川岸まで追い詰められた娘は、姉妹たちに姿を変えてほしいと願う。パンが娘を抱きしめたと思ったとき、腕の中にあったのは水辺の葦だった。嘆くパンの息が葦を吹き抜け、かすかな哀しい音が鳴った。パンは長さの違う葦を蝋でつないで笛を作り、娘の名をとってシュリンクスと呼んだ。今も「パンの笛」と呼ばれる楽器である。

水辺の葦の茂みから、娘たちをうかがうパン。
水辺の葦の茂みから、娘たちをうかがうパン。『パンとシュリンクス』 フランソワ・ブーシェ 1759年Public domain

この神は、歴史の場面にも顔を出す。歴史家ヘロドトスによると、ペルシャの大軍がマラトンに上陸したとき、アテネはスパルタへ助けを求めて足の速い伝令を走らせた。伝令は途中のアルカディアの山中で、パンに呼び止められたと報告した。私はアテネに好意を持っているのに、なぜアテネ人は私を祀らないのか。戦いに勝ったアテネ人は、アクロポリスの下にパンの聖域を設け、毎年祀るようになった。

パンの母親については、話がばらばらだ。ヘロドトスは、英雄オデュッセウスの妻ペネロペイアとヘルメスの子だとする説を伝えている。

そして、神なのに死んだと伝えられる珍しい神でもある。ローマ皇帝ティベリウスの時代、ギリシャ西の海を行く船の水先案内人が、島の近くで不思議な声を聞いた。「大いなるパンは死んだ」と告げよ。言われたとおりに叫ぶと、どこからともなく大勢の嘆きの声が上がったという。伝記作家プルタルコスが書き残した話である。

この物語の出典: 作者不詳『ホメロス風讃歌』、ヘロドトス『歴史』、オウィディウス『変身物語』、プルタルコス『神託の衰微について』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』

この物語の人々

こういう風にも語られている

『ホメロス風讃歌』の「パン讃歌」では、パンはヘルメスとドリュオプスの娘の子で、生まれつき山羊の脚と二本の角と髭をもっていた。乳母は顔を見て逃げ出したが、ヘルメスは喜んで野兎の毛皮にくるみ、オリュンポスへ連れて行ってゼウスたちに見せた。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

ヘロドトスは「ギリシャ人によればパンはペネロペとヘルメスの子」だと書き、トロイア戦争より後、自分の時代から約800年前に生まれた若い神だと計算する。一方でエジプト人はパンを最も古い八柱の神の一人とする、と対比する。

ヘロドトス『歴史』 前430年頃

アポロドロスは、アポロンが予言の術を学んだ相手を「ゼウスとヒュブリスの子パン」とする。同じ名で呼ばれる別のパンがいたと考える古代の注釈もある。

アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

ローマ以後の語り

オウィディウスでは、パンに追われたニンフのシュリンクスが川辺で葦に変わり、パンがその葦に吹き込むと哀しい音が出た。パンは長さの違う葦を蝋でつないで笛を作り、娘の名をとどめてシュリンクス(パンの笛)と呼んだ。

オウィディウス『変身物語』 8年頃

プルタルコスは、ティベリウス帝の時代にイオニア海のパクソイ島の近くで、船の水先案内人タムスが「大いなるパンは死んだと告げよ」という声を聞き、その通りに叫ぶと多くの嘆きの声が上がった、という話を伝える。神が死ぬという珍しい話で、報告を受けたティベリウスの学者たちはこのパンを「ヘルメスとペネロペの子」と推定した。

プルタルコス『神託の衰微について』 1世紀末〜2世紀初頭

オウィディウスでは、シュリンクスはディアナ(アルテミス)を慕って純潔を守るアルカディアのニンフで、パンに追われて川ラドンの岸で姉妹の水のニンフたちに変身を願い、葦になった。パンのため息が葦を鳴らし、パンは長さの違う葦を蝋でつないで笛を作った。

オウィディウス『変身物語』 8年頃

もっと詳しく

同じ讃歌は、神々「みな(πάντες)」の心を喜ばせたので「パン」と名づけられた、と名前の由来を説明する。「すべて」を意味する pan-(汎・パン)と神の名を結びつける語呂合わせが、すでに古代の讃歌の中にある。

作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

ペルシャ軍の上陸を知らせにスパルタへ走った伝令ピリッピデスは、アルカディアの山中でパンに呼び止められ、「アテナイ人はなぜ好意的な私を祀らないのか」と言われたと報告した。アテナイ人はマラトンの勝利のあとアクロポリスの下にパンの聖域を設け、毎年供犠と松明競走で祀るようになった。

ヘロドトス『歴史』 前430年頃

パンはホメロスの二つの叙事詩にも、ヘシオドス『神統記』にも登場しない。まとまった姿が現れるのはホメロス風讃歌とヘロドトスから。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃、ヘシオドス『神統記』 前700年頃

ほかのつながり(4人)

家族・恋愛

  • ゼウス親

    1.4.1 ゼウスとヒュブリスの子とする別伝

仲間・師弟

出来事・場所・物

今の言葉に残る

やぎ座 / Capricornus(Capricorn)やぎ座(山羊座)の山羊は、上半身が山羊、下半身が魚という不思議な姿で描かれる。ローマ時代のヒュギヌスの『天文譜』は、この姿の由来を二つ伝える。一つめは、ゼウスと一緒に育った山羊の脚の神の姿だという話である。ゼウスは、自分を育てた雌山羊を星にしたように、この幼なじみも星にした。彼はゼウスがティタン族と戦ったとき、敵に真っ先に恐怖を投げつけた者でもあり、その恐怖は「パンの恐れ」と呼ばれた。英語の panic(パニック)の元になった言葉である。石の代わりに貝を敵に投げつけたので、下半身が魚なのだともいう。二つめはエジプトの神官たちの伝えで、神々のもとに怪物テュポンが突然現れたとき、神々は鳥や猫に化けて逃げた。牧神パンは川に飛び込み、体の後ろ半分を魚に、前半分を山羊に変えて逃げのびた。ゼウスはその機転に感心して、その姿を星にしたという。英語の Capricorn はラテン語で「山羊の角を持つもの」の意味で、ギリシャ語の星座名「角のある山羊」を訳した言葉。古英語の終わりごろから使われている。

ファウナ(動物相 fauna)ある場所や同じ環境にすむ動物の全種類(動物相)を、ファウナという。植物相を指すフローラと対になる語。もとは、ローマの田園の豊穣の女神ファウナの名で、森と野の神ファウヌスの妻とも妹とも娘ともされる。リンネが1746年に、スウェーデンの動物を一覧にした本の題を『スウェーデン動物誌』(Fauna Suecica)とし、植物を一覧にした『スウェーデン植物誌』(Flora Suecica)と対にしたことから広まった。英語では1771年から記録がある。ファウヌスは、ギリシャの牧神パンにあたる神である。

マラソン(marathon)紀元前490年、アテナイの軍がマラトンの戦いでペルシャの大軍を破ったとき、一人の兵士が戦場のマラトンからアテナイまでの約40キロを走って勝利を告げ、そのまま息絶えた、という故事にちなむ競技。1896年、アテネでの第1回近代オリンピックに向けて、フランスの言語学者ブレアルがこの故事にならってマラソンを種目に入れるよう提案した。この戦いには、神話の神も顔を出す。歴史家ヘロドトスによれば、ペルシャ勢の上陸を知らせにスパルタへ走った伝令は、途中の山中で牧神パンに呼び止められた。アテナイ人に好意を寄せている自分を、なぜ彼らは祀らないのか、とパンは言ったという。マラトンで勝ったあと、アテナイ人はアクロポリスの下にパンの聖域を設けた。

パンデミック・パノラマの「パン」(牧神パンとは別の言葉)パンデミック(世界的な大流行)、パノラマ、パンアメリカンの「パン」は、ギリシャ語で「すべての」を表す言葉から来た接頭辞で、上半身が人、下半身が山羊の牧神パンとは本来別の言葉である。語源辞典によれば、パンの名はインドの古い神と同じ根をもつという説もあるが、疑う人もいて定まっていない。ところが古代の人々自身が、この二つを結びつけていた。『ホメロス風讃歌』の「パン讃歌」では、生まれたばかりの山羊の足の赤ん坊を父ヘルメスが神々に見せると、みな心から喜んだので、神々はこの子を「パン」と名付けた、と語られる。「すべて」の神々を喜ばせたから、という言葉遊びである。後の時代にも、この似た音のせいで、パンは自然のすべてを体現する神と見なされるようになったという。一方「パニック」は本当にパンの名から来ている。

パニック / panic英語 panic はフランス語 panique を経て、ギリシャ語 panikon「パンの(ものである)」から来ている。森や野の神パンは、群れや人々に理由のない恐怖を伝染させる不思議な音の出どころとされ、そうした恐怖を panikon deima「パンの恐れ」と呼んだ。名詞として「集団の突然の恐怖」の意味で使われるのは1708年から、金融の「恐慌」の意味は1757年から。

パンフルート(パンパイプ)長さの違う何本かの管を束ねたり、いかだのように並べたりして、切り口を吹いて鳴らす笛。材料は葦、竹、木、粘土、金属などで、いまもルーマニアやボリビアなどでよく使われる。名前は、ギリシャ神話の牧畜の神パンが使ったといわれるところから来ていて、シリンクス(シュリンクス)とも呼ばれる。ローマの詩人オウィディウスによれば、パンに言い寄られたニンフが逃げ、川に行く手をふさがれて葦に姿を変えた。パンは長さの違う葦を蝋でつなぎ、娘の名で呼ばれる笛を作ったという。

星座になった話

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このページの出典(12件)
  1. 前8世紀頃ホメロス『イリアス』
  2. 前8世紀頃ホメロス『オデュッセイア』
  3. 前700年頃ヘシオドス『神統記』
  4. 前7〜6世紀頃作者不詳『ホメロス風讃歌』
  5. 前430年頃ヘロドトス『歴史』
  6. 8年頃オウィディウス『変身物語』
  7. 1〜2世紀頃アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
  8. 1世紀末〜2世紀初頭プルタルコス『神託の衰微について』
  9. 2世紀頃ロンゴス『ダフニスとクロエ』
  10. 2世紀パウサニアス『ギリシア案内記』
  11. 2世紀後半アプレイウス『変身物語(黄金のろば)』
  12. 1984-94年刊、随時改訂(2026年9月閲覧)小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』