黄金の願いの話はオウィディウスより古い。前4世紀のアリストテレスは、貨幣を富とみなす考えを批判する中で「飽くなき願いのせいで出されたものがすべて黄金になり、飢え死にした伝説のミダス」を例に引いている。ここではミダスは死んでしまう。
アリストテレス『政治学』 前4世紀後半

Μίδας人間
判定の鈍さのためにロバの耳をつけられたミダス(版画)。アントニオ・テンペスタの作。 『図版102 ロバの耳をつけられたミダス(オウィディウス『変身物語』より)』 アントニオ・テンペスタ 1606年 メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)
「王様の耳はロバの耳」。子どものころに聞いた人も多いだろう。この話の王様には名前がある。小アジアの国プリュギアの王、ミダスだ。英語では、手がけるものを何でも儲けに変えてしまう才覚を「ミダス・タッチ」と呼ぶ。こちらも同じ王の話から来ている。
ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』によれば、始まりは酒の神ディオニュソスの一行だった。酒の神の育ての親である老人が、酔ってはぐれ、農夫たちに捕まって王の前に連れてこられた。ミダスは老人を10日10晩もてなし、神のもとへ送り返した。喜んだ神は、礼に望みを一つかなえてやろうと言う。
ミダスは願った。私が体で触れたものが、すべて黄金に変わりますように。
神はうなずいたが、もっとましな願いをしなかったことを残念がった。王は大喜びで帰り道にさっそく試した。樫の小枝を折ると金の枝になる。石を拾えば金の石、麦の穂をつめば金の穂、木の実をもげば金の実。手を洗えば、流れる水まで金になった。
ところが食卓につくと、話は変わった。パンに触れればパンは固まり、肉にかぶりつけば歯に当たるのは金の板。ぶどう酒を口に含めば、溶けた金が喉を流れる。金持ちでありながら、みじめだった。王は飢えと渇きに苦しみ、望んだばかりの黄金を憎んだ。
ミダスは両腕を天に上げて、酒の神に許しを請うた。神は許し、川の源へ行って頭から体を浸せと命じる。言われたとおりにすると、黄金の力は体から川へ移った。今でもその川沿いの野の土に金が混じるのはそのためだ、とオウィディウスは結ぶ。

この話は、オウィディウスより前から知られていた。前4世紀の哲学者アリストテレスは、貨幣こそが富だという考えを批判して、飽くなき願いのせいで出されるものすべてが黄金になり、飢え死にした伝説のミダスを例に引いている。こちらの王は、助からない。
懲りたミダスは富を嫌い、森や野に暮らして、牧神パンをあがめるようになった。けれども、頭の鈍さは変わらなかった。
あるとき、パンが自分の葦笛の歌を自慢して、竪琴の神アポロンに勝負を挑んだ。審判は山の神。パンの素朴な笛に続いて、アポロンが月桂樹の冠をかぶり、見事な竪琴を奏でると、山の神は迷わずアポロンの勝ちとした。皆がその判定に納得した。ただ一人、ミダスだけが、不公平だと言い立てた。
アポロンは、そんな鈍い耳に人間の形をしている資格はない、とばかりに、王の耳を長く引き伸ばし、白い毛で覆い、根元から動くようにした。ロバの耳である。ラテン語の神話集を残したヒュギヌスの伝えでは、勝負の相手は牧神ではなく笛の名手マルシュアスで、ミダスはその名手を勝たせるべきだったと言い、アポロンに「判定する頭に見合った耳をやろう」と言われたという。
ミダスは紫の頭巾をかぶって耳を隠した。だが髪を切る召使いだけは、見てしまった。人に言いふらす勇気はない。かといって黙ってもいられない。召使いは野原に穴を掘り、王様の耳はこんな耳だ、と小声でささやいて、土をかぶせて帰った。やがてそこに葦がびっしりと生えた。1年たって葦が育つと、南風に揺れるたびに、埋められた言葉をささやいて、王の耳の秘密を明かしてしまった。
神話の王とばかりは言い切れない。歴史家ヘロドトスは、ゴルディアスの子ミダスを、デルポイの神殿に奉納をした最初の異国の王として挙げ、その玉座が今もデルポイに置かれていると書いている。
この物語の出典: ヘロドトス『歴史』、アリストテレス『政治学』、コノン『物語集(ディエーゲーセイス)』、オウィディウス『変身物語』、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
黄金の願いの話はオウィディウスより古い。前4世紀のアリストテレスは、貨幣を富とみなす考えを批判する中で「飽くなき願いのせいで出されたものがすべて黄金になり、飢え死にした伝説のミダス」を例に引いている。ここではミダスは死んでしまう。
アリストテレス『政治学』 前4世紀後半
オウィディウスでは、ミダスは死なずに川で力を洗い流して助かる。アリストテレスの伝える形とは結末が違う。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
オウィディウスの形: 酔ってはぐれたシレノスを手厚くもてなして返した礼に、バックスが願いを一つかなえると言う。ミダスは「触れるものすべてが黄金になるように」と願い、パンも酒も口に入ると黄金になって飢え渇く。許しを請うと、パクトロス川の源で体を洗えと言われ、その力が川に移った。今もこの川の砂に金が混じるのはそのためだという由来譚になっている。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
パンとアポロンの音楽比べで、山の神トモロスがアポロンの勝ちとしたのに、ミダスだけが異を唱える。怒ったアポロンは彼の耳をロバの耳に変えた。ミダスは頭巾で隠したが、髪を切る召使いが秘密に耐えきれず、地面に穴を掘ってささやき、埋めて去る。やがてそこに生えた葦が風にそよいで秘密を語ってしまった。日本で「王様の耳はロバの耳」として知られる話と同じ筋である。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
英語の the Midas touch(何をしても儲けに変える才)は1883年から記録がある。人名 Midas 自体は1560年代から英語に現れ、同じ頃からアポロンにロバの耳を付けられた話でも知られていた。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
願いがかなうと、ミダスは樫の小枝、石、土くれ、麦の穂、木の実、柱に触れてすべて金に変え、手を洗った水まで金になった。食卓ではパンも肉も金の板になり、ぶどう酒は溶けた金となって喉を流れた。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
ヒュギヌスでは、アポロンと笛で競ったのはマルシュアス(あるいはパン)で、トモロスがアポロンの勝ちとしたのに、ミダスはマルシュアスに勝たせるべきだったと言い、アポロンに「判定の心に見合った耳を持て」とロバの耳にされる。黄金の願いの話も同じ章に続く。
ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃
ヘロドトスは「ゴルディアスの子ミダス」を、デルポイに奉納をした最初の異国の王として挙げ、その玉座がデルポイに置かれていると書く。またマケドニアには「ミダスの園」があり、そこでシレノスが捕らえられたという土地の話も伝える。歴史家にとってミダスは、神話の人物である前に実在の王だった。
ヘロドトス『歴史』 前430年頃
コノンは、ミダスがピエリアの山でオルペウスに学んだこと、捕らえたシレノスが人の姿に変えられて連れてこられたこと、食べ物まで黄金に変わったことを伝える。さらにミダスは民を率いてヘレスポントスを渡り、ブリゲス人をプリュギア人に変えたとされ、民族の移動の話と結びついている。
コノン『物語集(ディエーゲーセイス)』 前1世紀末〜後1世紀初め
ミダス・タッチ(the Midas touch)手がけることを何でも儲けや成功に変えてしまう才覚を指す英語の成句。1883年から記録がある。触れるものすべてを黄金に変える力を願ったミダス王の話(オウィディウス『変身物語』11.85-145)から。元の話では、その力のせいで食べ物まで黄金になり飢えに苦しむので、成句の明るい意味とは裏腹に、話そのものは欲の戒めである。