オウィディウスでは、妻エウリュディケを取り戻しに来たオルペウスの歌に亡霊が泣き、エウメニデス(復讐の女神たち)の頬まで濡れ、冥界の女王も王も願いを拒めなかった。
オウィディウス『変身物語』 8年頃

Ἅιδης神
ペルセポネを連れ去るハデス。ヴェルギナの王墓の壁画。 『ペルセポネを連れ去るハデス』 作者不詳 前4世紀(コモンズの説明による) ヴェルギナの王墓の壁画(マケドニア)Public domain
冥界の王ハデスが、悲鳴を上げて玉座から跳び上がったことがある。トロイア戦争のさなか、神々が敵味方に分かれてぶつかり合ったときのことだ。ゼウスが天から雷を鳴らし、海の神ポセイドンが大地を揺さぶる。山の根まで震えたそのとき、ハデスは恐れた。大地が裂けて、自分の住まいが神々にも人間にも丸見えになってしまうのではないか、と。神々でさえ忌み嫌う、湿って暗い館である。
ディズニーのアニメ映画『ヘラクレス』(1997年)で、主人公の英雄をつけねらう悪役も、この冥界の王だ。ディズニーの公式ファンクラブの事典は、彼を「たくらみ好きの冥界の神」と紹介している。
冥王星の英語名プルートや、元素のプルトニウムも、もとをたどるとこの神に行き着く。ハデスの別名、「富める者」プルトンである。
ハデスはゼウスの兄である。父は巨神族の王クロノス。弟にポセイドン、姉妹にはヘラやデメテルがいる。父クロノスは、わが子に王座を奪われると聞かされ、生まれた子を次々に呑み込んだ。ハデスもその一人。末の子ゼウスだけが母に隠されて助かり、やがて兄や姉たちを父の腹から取り戻す。
父を倒したあと、三人の兄弟は世界を分けることにした。くじの結果、ゼウスは広い天空を、ポセイドンは海を、そしてハデスは霧と闇の国を引き当てる。大地とオリュンポスは三人の共有とされた、とポセイドン自身が『イリアス』で語っている。
こうしてハデスは地下に住み、オリュンポスには上がらない。神々の集まりにも顔を出さないので、ふつう「オリュンポス十二神」には数えられない。
人間にとって、これほど好かれない神もいないだろう。なだめようがなく、屈することもない。だから神々の中でいちばん人間に憎まれている、と『イリアス』のアガメムノンは言い切る。冥界で英雄アキレウスの亡霊が漏らした言葉も有名だ。死者すべての王になるくらいなら、地上で貧しい男に雇われて畑を耕すほうがましだ、と。
その館の前には、一匹の恐ろしい犬がいる。『神統記』によれば、入ってくる者には尾と耳を振ってじゃれつくが、出ていこうとする者は決して逃がさず、捕まえて食らう。のちにケルベロスの名で知られる番犬である。

ハデスがいちばん大きく物語に姿を現すのは、妻をめとる場面だ。
『ホメロス風讃歌』の一篇『デメテル讃歌』によると、豊穣の女神デメテルの娘ペルセポネが野原で花を摘んでいると、見事な水仙が目に入った。手を伸ばしたとたん大地が裂け、黄金の車に乗ったハデスが現れて彼女をさらっていく。父ゼウスは、あらかじめこの結婚を許していた。

娘の悲鳴を聞きつけて探し回るデメテルに、すべてを見ていた太陽神ヘリオスが真相を告げる。そして、なだめるように言った。ハデスは婿として恥ずかしい相手ではない。あなたの兄弟であり、世界を三つに分けたとき、その一つの主となった神なのだから、と。
娘を失ったデメテルは嘆き、大地に作物を実らせなくなった。人間が飢え、神々への捧げ物も途絶えかけて、ゼウスはついに娘を返すよう命じる。迎えに来たのは伝令の神ヘルメス。冥界の王は眉だけで笑い、兄ゼウスの言いつけに逆らわなかった。そして妻に言う。母のもとへ行くがいい。私はゼウスの兄弟で、あなたにふさわしくない夫ではない。ここにいれば、生きて動くものすべての女主人となり、神々の中で最大の誉れを得るだろう、と。そう言って送り出す前に、ペルセポネにひそかに甘いザクロの種を食べさせた。冥界の食べ物を口にした者は、そこから離れきれない。こうしてペルセポネは、一年の三分の一を夫のもとで、残りを母のもとで過ごすと定められる。
冥界の王は、めったに地上に出てこない。珍しい例外は、英雄ヘラクレスに矢で射られたときだ。痛みに耐えかねたハデスはオリュンポスへ上り、神々の医者に薬を塗ってもらっている。女神アテナは戦場で「ハデスの兜」をかぶり、敵の目から姿を消したことがある。
死の神の名を口にするのを、ギリシャ人ははばかった。代わりに好んで使われたのが、先に挙げたプルトン、富める者という呼び名だ。作物も鉱物も、富は地の下から上がってくる。人々は恐れてハデスという名を避けている、とプラトンの『クラテュロス』にある。
ローマの詩人オウィディウスが伝えるのは、この王の心が一度だけ動いた話だ。毒蛇に噛まれて死んだ妻を取り戻しに、歌い手オルペウスが冥界へ降りてくる。竪琴に合わせて彼が歌うと、血の気のない亡霊たちは泣き、復讐の女神たちの頬まで涙で濡れたという。冥界の女王も王も、その願いを退けることはできなかった。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、プラトン『クラテュロス』、オウィディウス『変身物語』、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ『映画『ヘラクレス』(ディズニー)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
オウィディウスでは、妻エウリュディケを取り戻しに来たオルペウスの歌に亡霊が泣き、エウメニデス(復讐の女神たち)の頬まで濡れ、冥界の女王も王も願いを拒めなかった。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
三兄弟のくじ引きで「霧と闇」すなわち冥界を得た。ポセイドンの言葉として語られる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ピュロスでヘラクレスに矢を射られ、耐えがたい痛みを抱えてオリュンポスへ上り、パイエオンに薬を塗ってもらって癒えた、とディオネが語る。ハデスが冥界を離れる珍しい場面。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アテナが「ハデスの兜」をかぶってアレスの目から姿を隠す。姿を消す兜への言及はホメロスではこの一箇所だけで、詳しい由来は語られない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ゼウスの同意を得て、水仙を摘むペルセポネを大地の裂け目から現れた黄金の車で攫った。讃歌では終始「アイドネウス」「地下に多くを受け入れる者」と呼ばれる。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
返還を命じられた際、ペルセポネにひそかに甘いザクロの種を食べさせた。これによって彼女は一年の一部を必ず冥界で過ごすことになる。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
オリュンポスに住まないため、通常「オリュンポス十二神」には数えられない。ホメロスでも神々の集会にハデスは現れない。プラトン『法律』も、十二神の祭りを毎月行うとしたうえで、地下の神々は天上の神々と分け、プルトンの祭りは十二番目の月に置くとしている。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、トゥキュディデス『戦史(ペロポネソス戦争史)』 前5世紀末、プラトン『法律』 前4世紀半ば、『オックスフォード古典学辞典』 第4版 2012年
ホメロスでの「ハデス」は常に神の名であり、冥界そのものは「ハデスの館(Ἀΐδαο δόμος)」と所有格で表される。場所の名として Hades を使うのは後代の用法。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
「プルトン(富める者)」という呼び名は、死の神の名を直接口にするのを避けた婉曲表現とされ、地下から生じる富(プルトス)に重ねられた。この説明は古代人自身のもので、プラトン『クラテュロス』が、人々はハデスの名を恐れるので、地下から上がってくる富にちなんでプルトンと呼ぶのだ、と述べている。ローマの Dis Pater(dis「富める」)も同じ発想。
プラトン『クラテュロス』 前4世紀前半、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
神々が戦場でぶつかり合い、ポセイドンが大地を揺らしたとき、冥界の王アイドネウス(ハデス)は恐れて玉座から跳び上がり叫んだ。大地が裂けて、神々さえ忌み嫌う湿った暗い館が、人にも神にも見えてしまうことを恐れたのである。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
クロノスは王座を子に奪われるという予言を恐れ、レアが産んだヘスティア、デメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドンを次々に呑み込んだ。末子ゼウスだけが隠されて助かる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ハデスとペルセポネの館の前には恐ろしい番犬がいて、入る者には尾と耳を振ってじゃれつくが、出ようとする者は捕らえて食らう。同じ犬は『神統記』311-312 でケルベロスの名で出る。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『イリアス』9巻でアガメムノンは、ハデスはなだめようがなく屈することもない、だから神々の中で人間に最も憎まれる、と言う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ゼウスの命でヘルメスが迎えに来ると、ハデスは眉だけで笑って逆らわず、ペルセポネに、自分はゼウスの兄弟でふさわしくない夫ではない、ここでは生きるものすべてを治め最大の誉れを得る、と告げて送り出す。そのうえでザクロの種を食べさせる。ヘリオスも先にデメテルへ、ハデスは恥ずかしくない婿だと語っている。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
『イリアス』15.187-193 くじでハデスが「暗い闇」を得る /『神統記』767-774
1.2.1 キュクロプスから兜を贈られる
プルート / 冥王星 / プルトニウムハデスのもう一つの名プルトン(「富める者」)のラテン語形プルトが、1930年発見の天体の名になった。1942年に命名されたプルトニウムは、周期表でネプツニウムの次に来ることが海王星の次に冥王星が来る順序と重なることによる。日本語の「冥王星」は、星の随筆家として知られる野尻抱影が和名として提案し、広まった名である。