死者は、血を飲まなければ生きている者と口をきけない。だから英雄オデュッセウスは、地面に掘った穴に生贄の羊の血を流し、剣を抜いて、その前に座り込んだ。血を求めて群がってくる死者の影を、一人ずつ見定めるために。
では、生きたまま死者と語り合ったオデュッセウスの「冥界訪問」がどんなものだったのか、順に見ていこう。
帰り道を知りたければ、冥界にいる盲目の予言者テイレシアスの霊に聞け。そう命じたのは、魔女キルケだった。オデュッセウスは、冥界の底へ降りていったのではない。船で一日走り、世界のまわりを流れる大河オケアノスの果てへ向かった。そこは太陽の光が一度も射さない、霧と雲に包まれた人々の国。
キルケに教わったとおり、オデュッセウスは剣で、ひじから指先ほどの幅の穴を掘った。蜂蜜と乳、甘い葡萄酒、水の順に注ぎ、白い大麦をまく。そして黒い雄羊と雌羊の喉を切って、血を穴に流し込んだ。すると地の底から、死者の影がいっせいに上がってきた。花嫁、若者、老人、戦で倒れた兵士たち。そのすさまじい叫び声に、オデュッセウスは青ざめた。
最初に現れたのは、仲間の若者だった。キルケの館で酔って屋根の上で眠り、梯子を使うのを忘れて転げ落ち、首の骨を折って死んだ男である。仲間は急いで出発したため、埋葬もしていなかった。若者は頼んだ。私を弔わずに置き去りにしないでくれ。鎧とともに焼き、浜辺に塚を築いて、私が漕いでいた櫂を立ててほしい。オデュッセウスは約束した。
次に母の影が見えた。オデュッセウスは涙を流したが、剣をかざして母を血に近づけなかった。先に話を聞かなければならない相手がいた。
生贄の血の前に座るオデュッセウスと、現れた予言者テイレシアスの霊。『生贄の最中にオデュッセウスの前に現れるテイレシアス』 ヨハン・ハインリヒ・フュースリ 1780〜1785年Public domain予言者テイレシアスは血を飲むと、帰り道を語った。海の神ポセイドンの怒りは解けない。それでも、太陽神の島の牛に手を出さなければ、故郷へ帰り着ける。手を出せば船も仲間も失い、遅れて他人の船で帰り着いて、家では妻に言い寄る男たちが財産を食いつぶしているだろう。男たちを討ったら、櫂を一本担いで、海を知らない人々の国まで歩いて行け。その櫂を見て、麦をあおぐ道具かと尋ねる者に出会ったら、櫂を地面に立て、ポセイドンに生贄を捧げよ。そしてお前には、穏やかな老いの果てに、静かな死が訪れる。
予言を聞き終えると、オデュッセウスは母と語り合った。三度抱きしめようとして、三度とも腕はすり抜けた。続いて、名だたる英雄たちの母や妻の影が次々に現れた。
戦友たちにも会った。トロイア戦争の総大将アガメムノンは、帰国したその日に妻と愛人に殺されたと語った。英雄アキレウスには、あなたは死者の中でも王のように敬われているのだから、嘆くことはないと声をかけた。アキレウスは答えた。死を慰めるな。死者すべての王になるくらいなら、地上で、土地も持たない貧しい男に雇われて働くほうがましだ。
アキレウスの鎧をめぐって争い、オデュッセウスに敗れた英雄アイアスの影は、呼びかけても一言も答えず、黙って闇の中へ去っていった。
さらに待っていると、数えきれない死者たちが恐ろしい叫び声を上げて押し寄せてきた。冥界の女王ペルセポネが、怪物ゴルゴンの首を送ってよこすのではないか。恐怖に駆られたオデュッセウスは船へ駆け戻り、大河の流れに乗ってその場を去った。
『オデュッセイア』のこの部分には、冥界で永遠の罰を受ける罪人たちの姿も描かれている。ただしその場面は、古くから、あとで書き加えられたのではないかと疑われてきた。
この物語の出典: ホメロス『オデュッセイア』、『『オデュッセイア』古註(スコリア)』