まったく別の形の罰も伝わる。頭上に巨大な岩が吊るされ、いつ落ちるか分からないまま怯え続けるというもの。ピンダロスとアポロドーロスはこちらを採る。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

Τάνταλος人間
タンタロス(版画)。ジュリオ・サヌートの作。 『タンタロス』 ジュリオ・サヌート 1557〜1570年ごろ メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)
英語で「じらす」を tantalize という。タンタルという元素もある。どちらも、ギリシャ神話で永遠にじらされ続ける男、タンタロスの名から来ている。タンタルの名付け親は、酸に浸しても酸を吸い込まない性質を、水に浸かりながら水を飲めないこの男の罰になぞらえたのだという。
では、タンタロスがなぜそんな罰を受けることになったのか、見ていこう。
いちばん古い姿は『オデュッセイア』にある。冥界を訪れたオデュッセウスは、池の中に立つ一人の男を見た。水は顎まで届いている。ところが、喉が渇いて飲もうと身をかがめるたびに、水はすっと引いて、足もとには黒い土がのぞくだけ。頭の上には梨、柘榴、林檎、無花果、オリーブが実った枝が垂れている。手を伸ばせば、風が枝を雲の上まで吹き上げてしまう。
『オデュッセイア』は、この罰だけを描いて、何をしたからこうなったのかは一言も書いていない。
罪の中身は、後の時代の人々がさまざまに語った。ラテン語の神話集を残したヒュギヌスによれば、タンタロスはゼウスの息子だった。詩人ピンダロスは、神々にこれほど目をかけられた人間はいない、と書いている。タンタロスは神々の宴に招かれ、その礼に自分の館へ神々を招いてもてなすほどの身分だった。
ところが彼は、その幸運を消化しきれなかった。ピンダロスによれば、タンタロスは自分を不死にしてくれた神々の飲み物と食べ物を盗み出し、飲み仲間に分け与えた。アポロドーロスは、神々の秘密を人間に漏らしたからだ、とも書いている。
もっとおぞましい噂もあった。タンタロスは息子ペロプスを切り刻んで煮込み、神々の宴に出した、というのだ。アポロドーロスはこの話を採り、神々が生き返らせた息子は前よりもずっと美しくなっていたと伝える。けれどもピンダロスは、この話をきっぱり退けた。息子が宴の最中に姿を消したのは、海の神ポセイドンが恋をして、黄金の馬車で天へさらっていったからだ。探しても見つからないので、ねたみ深い隣人が、切り刻まれて食べられたのだとささやいたにすぎない。神々を大食らいと呼ぶことなど、自分にはできない、と。
罰の形も一つではない。ピンダロスとアポロドーロスは、頭の上に巨大な岩が吊るされていて、いつ落ちてくるか分からないまま怯え続ける、という罰を語る。
タンタロスの子ペロプスから、その孫にあたるトロイア戦争の総大将アガメムノン、さらにその息子へと続く血筋。後の悲劇作家たちは、この一族を、罪と復讐が代々くり返される呪われた家として描いた。ただし『オデュッセイア』は、冥界のタンタロスと、妻に殺されたアガメムノンの話を、別々に語っているだけである。
この物語の出典: ホメロス『オデュッセイア』、ピンダロス『祝勝歌集』、アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、『Merriam-Webster英語辞典』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
まったく別の形の罰も伝わる。頭上に巨大な岩が吊るされ、いつ落ちるか分からないまま怯え続けるというもの。ピンダロスとアポロドーロスはこちらを採る。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
罪の内容も出典で割れる。アポロドーロスは「神々の秘密を人間に漏らした」あるいは「神々のネクタルとアンブロシアを仲間に分け与えた」とする。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
息子ペロプスを切り刻んで煮て神々に供したという罪も伝わる。ただしピンダロスはこの話自体を「隣人のねたみが作った作り話」として退け、罪はネクタルとアンブロシアを盗んで仲間に配ったことだとする。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
英語の tantalize(手が届きそうで届かないものを見せてじらす)は、この罰に由来する。1590年代にラテン語 Tantalus から作られた語。語源の節も参照。
『Merriam-Webster英語辞典』 現代、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
『オデュッセイア』の冥界の場面では、顎まで水に浸かりながら身をかがめると水が引いて飲めず、頭上の梨・柘榴・林檎・無花果・オリーブに手を伸ばすと風が枝を吹き上げてしまう。ホメロスは罰だけを描き、何をしてこうなったのかは一言も書かない。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
タンタロス→ペロプス→アトレウス→アガメムノン→オレステスという血筋が「呪われた家」として語られる。ただしホメロスはタンタロスの罰とアガメムノンの死を別々に語るだけで、両者を因果でつなげていない。因果の鎖として組み上げるのは悲劇とアポロドーロスの仕事である。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃、アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ピンダロスによれば、タンタロスはシピュロスの館に神々を招いて返礼の宴を開き、その席でポセイドンがペロプスに恋して黄金の馬で天へさらった。姿を消したペロプスについて、ねたみ深い隣人が「切り刻まれて煮られ、食べられた」とささやいたのだという。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半
『オリュンピア祝勝歌』1.60-64
tantalize(じらす)「目の前にちらつかせて焦らす」意の英語動詞。1590年代にラテン語 Tantalus + -ize で作られた。タンタロスは顎まで水に浸かりながら飲もうとすると水が引き、頭上の果実も手を伸ばすと逃げる罰を受けた、という伝承による。
タンタル / tantalum元素タンタル。1802年にスウェーデンの化学者アンデシュ・エーケベリが命名。酸に浸しても酸を吸収しない(酸の中にいながら何も得られない)性質が、水に浸かりながら飲めないタンタロスの罰を思わせることによる。