『オデュッセイア』では主犯はアイギストス。自邸の宴に招いて「牛を飼葉桶で殺すように」討ち、クリュタイムネストラは「呪わしい妻」として加担する。カッサンドラを斬ったのは彼女だとアガメムノンの亡霊が語る。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃

Ἀγαμέμνων英雄
ミュケナイの墓から出た金の仮面。「アガメムノンの仮面」と呼ばれている。 『「アガメムノンの仮面」』 作者不詳 前16世紀(コモンズの説明による) アテネ国立考古学博物館。写真 Jebulon(2015年)CC0
全軍が見ている前で、総大将が言い放った。故郷に残してきた妻よりも、この娘のほうが好ましい。
言ったのはアガメムノン。トロイアに攻め寄せたギリシャ連合軍の総大将である。この一言がどれほど不吉だったかは、物語の終わりに分かる。
話は、出陣の前から始まる。
彼はギリシャ本土の大国ミュケナイの王で、弟は、トロイアの王子にさらわれた絶世の美女ヘレネの夫だった。『イリアス』が出陣した船を国ごとに数え上げる場面で、彼は誰よりも多い100隻を率い、兵の数でも武具の輝きでも抜きんでていたと書かれる。手にする王笏は、鍛冶の神ヘパイストスが作ってゼウスに献じ、代々の王の手を渡ってきたものだった。
今は失われた叙事詩『キュプリア』のあらすじによれば、遠征は出だしからつまずいている。港で鹿を射たアガメムノンが、狩りの女神アルテミスにも勝る腕だと豪語したため、女神は嵐の風を送って船出を阻んだ。船を出すために、彼は自分の娘を祭壇に捧げなければならなかった。ただし『イリアス』には、この話は出てこない。『イリアス』の中の彼は、三人の娘を全員生きているものとして数えている。

『イリアス』の幕は、ひとりの老人の訪問で開く。アポロンに仕える神官が、捕虜にされた娘を取り戻そうと、山ほどの身代金を持って陣を訪れたのだ。兵たちは皆、受け取るべきだと声を上げた。だがアガメムノンだけは首を縦に振らない。二度と船のそばに姿を見せるな、あの娘は故郷のわしの館で年老いるまで機を織り、わしの床に仕えるのだ、と老人を追い返した。
神官はアポロンに祈った。アポロンは9日のあいだ陣に矢を射かけ、兵も犬も騾馬も疫病で倒れていく。予言者が原因を明かすと、アガメムノンは予言者をにらみつけ、いつも凶事ばかり告げる男だとなじった。冒頭の一言は、このとき出たものだ。それでも娘は返すと折れた。ただし代わりの分け前をよこせ、と。
矛先はアキレウスに向かった。軍でいちばんの勇士が戦いで得た捕虜の娘を、アガメムノンは使いを送って取り上げさせる。アキレウスは戦場から身を引き、母である海の女神を通じてゼウスに、ギリシャ軍が負けるよう願った。『イリアス』の物語は、この怒りを軸に回っていく。

ゼウスはアガメムノンに偽りの夢を送った。信頼する老将の姿で枕元に立った夢は、いまこそトロイアを落とせると告げる。喜んだアガメムノンは、兵の士気を試そうと、わざともう故郷へ帰ろうと呼びかけた。兵たちは歓声を上げて船へ駆け出し、船の支えを外しはじめた。女神アテナの意を受けたオデュッセウスが走り回って、ようやく引き止めた。
戦況が傾くと、彼は自分の迷いを認めた。アキレウスのもとに使者を送り、黄金、鼎、名馬、七つの町、そして三人の娘の誰でも持参金つきで嫁がせると申し出る。取り上げた娘には一度も手を触れていない、と誓うとまで言った。アキレウスの答えは、砂や塵ほどの贈り物を積まれても心は動かない、というものだった。
アキレウスの親友が討たれてようやく、二人は和解する。アガメムノンは言った。悪いのは自分ではない。ゼウスと運命と、人の心を惑わす女神が、あの日わたしの目をくらませたのだ、と。
戦争が終わり、彼は故郷へ帰り着いた。浜に降りると大地を抱いて口づけし、熱い涙を流した。その姿を見張りが見ていた。留守のあいだに彼の妻と通じていた男が、黄金2タラントンで雇い、1年前から見張らせていた者だった。その男は20人の兵を伏せ、宴に招いたアガメムノンを、飼葉桶の前の牛を屠るように殺した。
『オデュッセイア』で冥界に下りたオデュッセウスに、アガメムノンの亡霊が自分の最期を語る。呪わしい妻が手を貸した。戦利品として連れ帰ったトロイアの王女カッサンドラが、すぐそばで妻に斬られる悲鳴を聞いた。死んでいく自分の目を、妻は閉じてもくれなかった。子にも召使いにも喜んで迎えられると思っていたのに、と。

のちの冥界で、この亡霊は、夫を20年待ち続けたオデュッセウスの妻をたたえ、自分の妻と引き比べている。
前458年に上演された悲劇で、作者のアイスキュロスは手を下す者を入れ替えた。舞台の上で夫を殺すのは、妻本人である。2004年の映画『トロイ』はさらに大きく変えて、アガメムノンを故郷に帰すことなく、トロイアの地で死なせている。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』、アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』、ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』
『オデュッセイア』では主犯はアイギストス。自邸の宴に招いて「牛を飼葉桶で殺すように」討ち、クリュタイムネストラは「呪わしい妻」として加担する。カッサンドラを斬ったのは彼女だとアガメムノンの亡霊が語る。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
アイスキュロス『アガメムノン』(前458)では、クリュタイムネストラが自ら手を下す。浴室で出口のない衣をかぶせて三度打ち、返り血を浴びたことを誇って語る。アイギストスは殺害後に現れる脇役に後退している。ホメロスから約300年で主犯が入れ替わった。
アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年
船の一覧では最大の100隻を率い、「はるかに最も多くの兵を連れ、武具のなかで際立っていた」と書かれる。権威の根拠は徳ではなく規模である。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
王権の象徴である王笏の来歴がわざわざ語られる。ヘファイストスが作り、ゼウス、ヘルメス、ペロプス、アトレウス、テュエステスを経てアガメムノンに渡った。ここではアトレウスとテュエステスが平和に王笏を受け渡しており、後代に有名な兄弟の骨肉の争いはまったく出てこない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アポロンの神官クリュセスが身代金を持って娘の返還を求めたのを、手荒く追い返す。怒ったアポロンが9日間矢を射かけ、ギリシャ陣は疫病に倒れる。『イリアス』の事件はここから始まる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
クリュセイスを返すよう求められたとき「妻クリュタイムネストラよりも彼女のほうが好きだ」と公言する。のちの顛末を知って読むと相当に強烈な台詞。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
クリュセイスを返す代償として、アキレウスの分け前であるブリセイスを取り上げる。これがアキレウスの怒りと戦線離脱を招く。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ホメロスはイピゲネイアの犠牲を知らない。『イリアス』9巻でアガメムノンは「クリュソテミス、ラオディケ、イピアナッサ」という三人の娘の誰でもアキレウスに嫁がせると申し出ており、娘を殺した男の台詞にはなっていない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アポロンの神官が身代金を持って娘を取り戻しに来たとき、他の者はみな受け取るよう声を上げたが、アガメムノンだけは拒み、娘は故郷で機を織り自分の床に仕えるのだと言って老人を追い返した。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ゼウスはネストルの姿をした偽りの夢をアガメムノンに送り、いまトロイアを落とせると告げる。アガメムノンは兵を試すため帰国を呼びかけ、兵が本当に船へ殺到してしまう。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アキレウスへの償いとして、鼎・黄金10タラントン・名馬12頭・レスボスの女7人・ブリセイス(手を触れていないと誓う)・トロイア陥落後の分け前・娘の一人と持参金・七つの町を申し出る。アキレウスは「砂や塵ほどの数の贈り物」でも心を変えないと拒む。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アキレウスとの和解の場で、自分に罪はなく、ゼウスと運命とエリニュス、そして人を惑わす女神アテが心をくらませたのだと弁明する。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
帰国したアガメムノンは大地を抱いて口づけし涙を流したが、アイギストスが黄金2タラントンで雇い1年見張らせていた男に見つかる。アイギストスは20人を伏せて宴に招き、彼を殺した。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
亡霊は、死にゆく自分の目も口も、妻は閉じてくれずに背を向けた、と語る。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
冥界で亡霊となったアガメムノンは、夫を待ち続けたペネロペイアの名声は歌となって残るとたたえ、夫を殺した自分の妻の歌は忌まわしいものになると対比する。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
2.105-108(王笏の系譜)
『アガメムノン』でミュケナイへ連れ帰られる。『オデュッセイア』11.421-423 でアガメムノンと共に殺される
『キュプリア』梗概。アガメムノンが鹿を射て自慢したことに怒り、アウリスで艦隊を止めた
4.257-264。特別に杯を満たされる待遇を受ける
11.19-23 トロイア遠征の噂を聞いて、客人への贈り物として胸当てを贈った
8.77-82
4.512-537 帰国したアガメムノンがアイギストスに殺されたことを語る
総大将。100隻(2.569-580)
11.385-466 妻クリュタイムネストラに殺された経緯を語る
『オデュッセイア』3.141-156(出航を遅らせる)、4.512-537(帰国の日に殺される)、11.405-411。『ノストイ』プロクロス要約