映画『トロイ』(2004)では、メネラオスは物語の序盤でヘクトルに殺される。原典では戦争を生き延びてエリュシオンに送られる人物が、翻案では早々に退場する。
ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』 2004年

Μενέλαος英雄
兜をかぶったメネラオスの大理石の胸像。 『メネラオスの胸像』 写真 ジャコモ・ブロージ 写真は1881年以前 ヴァティカン美術館Public domain
映画『トロイ』で、スパルタ王メネラオスは最初の合戦で敵の総大将ヘクトルに斬られ、あっけなく退場する。ところが『オデュッセイア』では、彼はトロイア戦争を最後まで生き延びるどころか、死ぬことさえない。世界の果てにある楽園へ、生きたまま送られる運命にあった。
戦争の発端になった「妻を奪われた夫」は、どんな道をたどったのか。
メネラオスは、ギリシャ軍の総大将アガメムノンの弟である。絶世の美女ヘレネのもとにギリシャ中の王や英雄が求婚に押しかけたとき、ヘレネの父が婿に選んだのが彼だった。こうしてメネラオスはスパルタの王になる。
ある日、トロイアの王子パリスが客としてやって来た。メネラオスは9日間もてなしたが、10日目、祖父の葬儀のためにクレタ島へ出かけてしまう。その留守に、パリスはヘレネを口説き、財宝を積んで夜のうちに船出した。ヘレネは、9歳の娘を置いて出ていった。
妻を取り戻すため、兄アガメムノンがギリシャ中の王を集めてトロイアへ攻め寄せる。メネラオスはスパルタの船60隻を率いて加わった。
『イリアス』の中で、メネラオスは戦争を終わらせかけたことがある。両軍の前で、当事者どうしの一騎打ちが決まった。勝った者がヘレネと財宝を手にし、戦争はそれで終わり。メネラオスはパリスを追い詰め、兜の緒をつかんで味方の陣へ引きずっていく。ところが愛の女神アプロディテが緒を断ち切り、パリスを霧で包んで、ヘレネの待つ寝室へ運び去ってしまった。

直後、休戦の最中に、トロイア方の弓の名手が放った矢がメネラオスに刺さる。誓いは破られ、戦いは再開した。のちに英雄アキレウスの親友が討たれると、その亡骸にまたがって敵を寄せつけず、守り続けたのもメネラオスだった。
トロイアが落ちたあとも、メネラオスの帰り道は長い。嵐で船団を散らされ、残った5隻でエジプトへ流され、キプロス、フェニキア、リビアとさまよった。帰り着いたのは8年目のことである。その間に、兄アガメムノンは故郷で妻とその愛人に殺されていた。
旅の途中、エジプト沖の島で、メネラオスは風が止まって20日も足止めを食った。食べ物が尽きかけたとき、声をかけてきたのが海の老人プロテウスの娘だった。父を捕まえれば帰り道を聞き出せる、と教えてくれた彼女は、剥いだばかりのアザラシの皮を4枚持ってきて、メネラオスと部下を浜の砂の穴に寝かせ、皮をかぶせた。生臭さに耐えられないでいると、鼻の下に甘い香りの神の香料を置いてくれた。
昼になって、老人がアザラシの群れとともに海から上がってくる。数を数えて横になったところへ、4人は一斉に飛びかかった。老人は獅子になり、蛇になり、豹になり、猪になり、流れる水になり、高い木になった。それでも放さずにいると、老人はついに観念し、帰り方を教えた。そして、兄アガメムノンの死も告げた。

老人はもう一つ、思いがけない予言をした。メネラオスは死なない。神々が世界の果ての楽園エリュシオンへ送る。そこには雪も嵐もなく、いつも心地よい西風が吹いている。理由は彼の手柄ではなかった。ヘレネを妻にしている、つまりゼウスの婿だから、というのである。
『オデュッセイア』のメネラオスとヘレネは、スパルタで穏やかに暮らしている。オデュッセウスの息子が父の消息を尋ねて訪ねてくると、夫婦は客の前でトロイアの思い出を語り合い、ヘレネはつらさを忘れさせる薬をそっと酒に混ぜた。

妻を奪われ、10年戦い、8年さまよった末に、何事もなかったように夫婦が続いている。後の悲劇作家たちは、これとはまったく違うメネラオスを描いていく。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』
映画『トロイ』(2004)では、メネラオスは物語の序盤でヘクトルに殺される。原典では戦争を生き延びてエリュシオンに送られる人物が、翻案では早々に退場する。
ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』 2004年
パリスはメネラオスのもとで9日間もてなされたが、10日目にメネラオスが母方の祖父カトレウスの葬儀のためクレタへ出かけると、ヘレネを説き伏せて財宝を積み、夜に船出した。ヘレネは9歳の娘ヘルミオネを残していった。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ラケダイモン(スパルタ)勢を率いてトロイアに向かった。ヘレネのために報いようと意気込んでいた。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アガメムノンの弟。兄の苦労を察して、呼ばれずとも集まりに来る。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
3巻でパリスと一騎打ちを行い、兜の緒を掴んで引きずるところまで追い詰めるが、アフロディテが緒を切り、パリスを霧に包んで寝室へ運び去る。当事者同士で決着をつけて戦争を終わらせる筋書きが、神の介入で潰される。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
一騎打ちの直後、休戦の最中にパンダロスの矢に射られる。これで誓いが破られ、戦争が再開する。彼の負傷そのものが戦争の継続装置になっている。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
パトロクロスの遺体をめぐる攻防では、彼が遺体の上に立って守り続ける。17巻はほぼ彼の巻で、『イリアス』における最も長い活躍の場面になっている。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
帰路、エジプト沖のパロス島で足止めされ、海の老人プロテウスを待ち伏せして捕らえる。姿を次々に変えるのを離さずに押さえ込み、帰り方と仲間たちの消息を聞き出す。この場面でアガメムノンの死も語られる。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
プロテウスは、メネラオスはアルゴスで死ぬのではなく、生きたままエリュシオンの野へ送られると告げる。理由は本人の徳ではなく「ヘレネを妻としており、ゼウスの婿だから」である。最も人間くさい英雄が、婚姻によって不死に最も近い運命を得る。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
『オデュッセイア』4巻の彼とヘレネは、スパルタで穏やかに暮らしている。二人は客の前でトロイアの思い出を語り合い、ヘレネは悲しみを忘れさせる薬を酒に入れる。復讐も断罪もなく、夫婦がただ続いている。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
落城の夜にヘレネを殺そうと剣を抜いたが、彼女の胸を見て剣を取り落とした——という話が悲劇に出てくる。エウリピデス『アンドロマケ』はこの型で彼を嘲り、『トロイアの女』では「スパルタへ連れ帰って殺す」と言いながら結局は連れ帰るだけになる。ホメロスのおだやかな戦後とは別の系統の後日談。
エウリピデス『アンドロマケ』 前425年頃、エウリピデス『トロイアの女』 前415年
帰路、スニオン岬で舵取りを失い、マレア岬沖の嵐で船団を分けられ、5隻でエジプトに流された。キプロス、フェニキア、エジプト、リビアなどをさまよって財を集め、8年目に帰国した。その間にアガメムノンはアイギストスに殺されていた。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
パロス島で20日間風が止まって足止めされたとき、プロテウスの娘エイドテアが助け、アザラシの皮4枚を用意してメネラオスと部下3人を浜に伏せさせた。臭いに苦しむ彼らの鼻の下にアンブロシアを置いた。プロテウスは獅子、蛇、豹、猪、水、木と姿を変えたが、放さなかった。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
2.408-409(兄弟がともにアトレイデスと呼ばれる)
『アエネイス』6.494-534、アポロドーロス摘要 5.22
362-367 マレア岬沖で、兄アガメムノンが殺されたことを告げる
2.581-590
60隻(2.581-590)。戦争の当事者
『オデュッセイア』3.276-312、4.81-85、4.351-570 8年さまよってエジプトから帰る
ヘレネを取り戻す。『オデュッセイア』8.517-520 でデイポボスの家へ向かう