ヘカベが「燃える松明を産む」夢を見たため、生まれてすぐイダ山に捨てられたが、羊飼いに拾われて育ち、のちに競技会で実の兄弟に勝って素性が知れる。『イリアス』にこの出生譚は無い。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃

Πάρις人間
林檎を手に立つトロイアの王子パリス。カノーヴァの像。 『パリス』 アントニオ・カノーヴァ 1812〜1816年 バイエルン州立絵画コレクション(ミュンヘン)Public domain
フランスの首都パリと、トロイアの王子パリス。カタカナで書くとよく似ているが、二つの名前に関係はない。パリの名は、昔その土地に住んでいた部族の名から来ている。2004年の映画『トロイ』ではオーランド・ブルームが演じた、トロイア戦争の火種を持ち込んだ王子。それがパリスである。
火種は、この王子が生まれる前から、母の見た夢の中にあった。
トロイアの王妃は、2人目の子を身ごもったとき、恐ろしい夢を見た。自分が燃える松明を産み、その火が町じゅうに広がって焼き尽くす夢だった。夢解きの占い師は、この子は国を滅ぼすと告げ、捨てるように勧めた。王プリアモスは生まれた赤子を召使いに渡し、トロイアの近くのイダ山に捨てさせた。
赤子は5日のあいだ、熊の乳で生き延びていた。まだ生きているのを見た召使いは、連れ帰って自分の子として育て、パリスと名付けた。たくましく美しい若者に育ったパリスは、盗賊を追い払って羊の群れを守ったことから、「男たちを守る者」という意味の別の名でも呼ばれるようになる。やがて王の子だと知れて、王家に迎え入れられた。
イダ山で羊飼いをしていたころ、パリスのもとに三人の女神が連れてこられた。争いの女神が、美しさを競う賞品として投げ入れたりんごをめぐって、ヘラ、アテナ、アプロディテが争い、ゼウスが審判をこの若者に任せたのだ。女神たちはそれぞれに見返りを約束した。ヘラは世界を治める王の座を、アテナは戦いでの勝利を、アプロディテは絶世の美女ヘレネを。パリスはアプロディテを選んだ。これが「パリスの審判」である。

パリスは船を造らせてスパルタへ向かい、王メネラオスの客として9日間もてなされた。10日目、王が留守にしたすきに、王妃ヘレネを連れて船出した。ギリシャ中の王たちがトロイアに押し寄せ、10年にわたる戦争が始まる。
『イリアス』に描かれるパリスは、どこか頼りない。自分から一騎打ちを挑んでおきながら、相手のメネラオスが進み出ると、蛇を見たように隊列の中へ逃げ戻る。兄ヘクトルは「ろくでなしのパリス」と罵った。パリスは、神々の贈り物をけなさないでほしい、と言い返し、あらためてメネラオスと一騎打ちをすることになる。
その決闘でも、パリスは兜の緒をつかまれて引きずられ、あわや絞め殺されるところだった。アプロディテが緒を切り、霧で包んで寝室へ運び去った。ヘレネは、戦場から戻ったパリスを冷たく迎える。あなたなど、かつての夫に討たれて死んでしまえばよかった。パリスは意に介さず、あなたをスパルタから連れ出したときより、今のほうが恋しい、と言って寝床へ誘った。そのころ戦場では、メネラオスが獣のようにパリスを探し回っていた。

それでも、弓の腕は確かだった。ギリシャの勇将の足を射抜いて笑い、「女のような弓使い」と罵り返されている。そしてパリスの矢は、ついに最強の戦士を倒す。アポロンに導かれた矢で、英雄アキレウスを射殺したのだ。
最期は、同じ弓矢で訪れた。英雄ヘラクレスの弓を受け継いだ弓の名手に射られ、深い傷を負ったパリスは、イダ山にいる最初の妻のもとへ戻った。羊飼いだったころに結ばれた川の神の娘で、予言の力を持ち、ヘレネを迎えに行くなと止めた人だった。傷ついたら私のところに来なさい、あなたを治せるのは私だけだから。そう言っていた妻は、恨みを捨てられずに治療を断った。パリスはトロイアへ運ばれて死んだ。あとで思い直した妻は、薬を手に駆けつけたが、夫はもう息絶えていた。彼女は首を吊った。

国を焼く松明の夢は、こうしてその通りになった。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』、アルクティノス(伝)『アイティオピス』、レスケス(伝)『小イリアス』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』、ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』
ヘカベが「燃える松明を産む」夢を見たため、生まれてすぐイダ山に捨てられたが、羊飼いに拾われて育ち、のちに競技会で実の兄弟に勝って素性が知れる。『イリアス』にこの出生譚は無い。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃
ピロクテテスの矢で傷を負い、かつて捨てた妻オイノネに治療を乞うが拒まれて死ぬ。悔いたオイノネは後を追う。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、クイントゥス・スミュルナイオス『ホメロス後日譚(ポストホメリカ)』 3〜4世紀
映画『トロイ』(2004)では、パリスとヘレネは落城の際に生き延びて街を脱出する。原典の伝承ではパリスは落城前に戦死しており、大きく異なる。
ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』 2004年
捨てられた赤子は5日間熊に乳を与えられて生き延び、召使いアゲラオスが連れ帰ってパリスと名付けて育てた。盗賊を退けて群れを守ったことからアレクサンドロスとも呼ばれた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オイノネはレアから予言の術を学んでおり、ヘレネを迎えに行くなと止め、傷を負ったら自分のところへ来るよう、自分だけが治せると告げていた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
映画『トロイ』(2004)でパリスを演じたのはオーランド・ブルーム。
ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』 2004年
「パリスの審判」は『イリアス』では一箇所しか触れられない。ヘクトルの遺体を巡る神々の場面で、パリスが二女神を侮辱しアプロディテを称えたことが、ヘラとアテナの怒りの理由として短く回想されるだけである。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
審判の詳細(三女神がそれぞれ権力・武勇・最も美しい女を約束し、パリスがアプロディテを選ぶ)は『イリアス』の外で語られる。『キュプリア』要約、エウリピデス、アポロドーロス、オウィディウスと繰り返し語り直された。
作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』 前7世紀頃、エウリピデス『トロイアの女』 前415年、オウィディウス『名婦の書簡』 前15年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
『イリアス』では一騎討ちを挑みながら、メネラオスが進み出ると隊列に逃げ戻る。改めて行われた決闘では兜の緒を掴まれて引きずられるが、アプロディテが緒を切って霧に包み、寝室へ運び去る。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
槍ではなく弓で戦う。ディオメデスの足を射抜いて笑う場面があり、ディオメデスは「女のような弓遣い」と罵り返す。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アキレウスを射殺す。『イリアス』の外の伝承で、多くはアポロンが矢を導いたとされる。踵に当たったという形は後代に定着した。
アルクティノス(伝)『アイティオピス』 前7世紀頃、オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
決闘から寝室に運ばれたパリスを、ヘレネは「前の夫に討たれて死ねばよかった」と責めるが、パリスはスパルタから連れ出したとき以上に今のほうが恋しいと言って床に誘う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
パリ(フランスの首都)——似ているが無関係フランスの首都パリの名は、この地に住んだガリアの部族パリシイ(Parisii)に由来し、ガロ・ラテン語の Lutetia Parisorum が元。トロイアの王子パリスとは、綴りが同じでも語源上の関係は無い。