ただし『イリオスの陥落』要約では、ラオコオンの一件に不吉を感じたアイネイアス一行は落城の前にイダ山へ退いており、脱出の劇的な場面は語られない。
アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』 前7世紀頃

Αἰνείας英雄
傷の手当てを受けるアイネイアス。ポンペイの壁画。 『矢じりを抜かれるアイネイアス』 作者不詳 79年以前(ポンペイの壁画) ナポリ国立考古学博物館(inv. 9009)。ポンペイ、シリクスの家からPublic domain
映画『トロイ』の終盤、燃え落ちる城から逃げる人々の中に、ひとりの若者がいる。王子パリスは彼に剣を託し、新しいトロイアを築けと言う。若者の名はアイネイアス。この若者こそ、のちにローマ人が自分たちの祖先と仰いだ英雄である。
もっとも、古い詩の中で二人がこうして出会うことはない。パリスは、城が落ちる前に死んでいる。
アイネイアスは、女神の息子だった。愛の女神アプロディテが、トロイア近くのイデ山で牛を飼っていた人間の若者アンキセスと結ばれ、この子を産んだ。女神にとって、人間と交わったのは恐ろしい悲しみだった。だから子の名には「悲しみ」の響きを込めた、と女神自身が語っている。

トロイア戦争が始まると、アイネイアスはトロイア方で、総大将ヘクトルに次ぐ武将として戦った。ただ、トロイア王の息子ではない。同じトロイア王家から枝分かれした、もう一つの家筋の出である。
『イリアス』の彼は、二度、神に命を救われている。一度目は、ギリシャ方の猛将に大きな石を投げつけられ、倒れたとき。母アプロディテが両腕で息子を抱きかかえ、戦場から連れ出した。二度目は、アキレウスとの一騎打ち。今度は海の神ポセイドンが霧で包んで救い出す。ポセイドンはギリシャ方の神だが、このとき言った。この男は死ぬ定めではない。これから先、トロイア人を治めるのはアイネイアスと、その子孫なのだ、と。
この予言を大きく育てたのが、紀元前19年ごろにローマの詩人ウェルギリウスが書いた叙事詩『アエネイス』である。
トロイアが落ちた夜、アイネイアスは、老いた父アンキセスを肩に担ぎ、幼い息子の手を引き、家の守り神の像を携えて燃える町を逃れた。後ろには妻がついて来ていた。ところが町の外の集合場所に着いてみると、妻の姿だけがない。アイネイアスは鎧をまとって炎の町へ引き返し、妻の名を何度も叫んだ。現れたのは、妻の影だった。嘆かないで、これは神々の意思です。あなたは長い旅の果てに、西の国の川のほとりで王国と王家の妻を得るでしょう。そう告げて、影は消えた。三度抱きしめようとして、三度とも腕は空を切った。

生き残った人々を船に乗せ、アイネイアスは地中海をさまよう。7年目の夏、トロイアを憎む女神ヘラが起こした嵐で、船団は北アフリカの浜へ流された。そこでは、故郷を追われた女王ディドが、新しい町カルタゴを築いている最中だった。
ディドはアイネイアスを温かく迎え、やがて恋に落ちる。母アプロディテが、恋の神エロスを彼の息子の姿に化けさせ、女王の膝に抱かせて恋の火を吹き込んでいた。狩りの最中に嵐に遭い、二人が同じ洞窟に逃げ込んだ日を、ディドは結婚と呼んだ。

しかし神々の王ゼウスは、使いを送って彼を急かす。お前の行き先はイタリアだ、と。アイネイアスは船を出した。去っていく帆を見たディドは、彼の一族とカルタゴが永遠に争うよう呪い、彼の残した剣で自ら命を絶った。ローマとカルタゴの長い戦争の起源が、一人の女王の恨みに置かれている。
イタリアにたどり着いたアイネイアスは、巫女に導かれて冥界へ下る。恋に死んだ者たちの森で、ディドの影を見つけた。本意ではなかったと涙ながらに語りかけても、影は目を伏せたまま一言も答えず、去っていった。冥界の奥では父の霊が、これから生まれるローマの英雄たちを一人ずつ指し示した。

旅の終わりの地、イタリア中部の王国には、王のひとり娘ラウィニアがいた。神託は、娘を異国の男に嫁がせよと告げている。ところが娘には、隣国の若い王という婚約者がいた。花嫁をめぐって、イタリアを二分する戦争が始まる。
最後の一騎打ちで、アイネイアスは相手を打ち倒した。命乞いをされて、心が揺れかける。そのとき、相手の肩に見覚えのある剣帯が目に入った。自分が預かり、この男に討たれた若者のものだった。怒りに燃えたアイネイアスは、とどめを刺す。『アエネイス』は、そこで唐突に終わる。

アイネイアス自身が建てたのは、妻の名にちなむ町ラウィニウムだ。ローマそのものが築かれるのは、ずっと後の子孫ロムルスの代である。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、ウェルギリウス『アエネイス』、ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』
ただし『イリオスの陥落』要約では、ラオコオンの一件に不吉を感じたアイネイアス一行は落城の前にイダ山へ退いており、脱出の劇的な場面は語られない。
アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』 前7世紀頃
落城の夜、老父アンキセスを肩に担ぎ、息子アスカニオスの手を引き、家の守り神を携えて脱出する。西洋美術で繰り返し描かれた図像。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
ローマ建国の祖とする筋立ては『アエネイス』で確立した。アイネイアス自身が建てるのはラウィニウムで、ローマの建国はさらに後のロムルスとされる。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
映画『トロイ』(2004)では、脱出の場面でパリスが若者アイネイアスに「トロイアの剣」を託し、新しいトロイアを築けと言う。原典ではパリスはこれ以前に死んでおり、二人が出会う場面は無い。
ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』 2004年
落城の夜、ついて来ていた妻クレウサがはぐれる。アイネイアスは町へ引き返して名を呼び続け、現れた妻の影から、長い流浪の末に西の国(ヘスペリア)のテヴェレ川のほとりで王国と王家の妻を得ると告げられる。三度抱こうとして三度とも腕がすり抜けた。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
アキレウスに討たれかけたとき、ポセイドンが「彼は死ぬ定めではない。ダルダノスの血を絶やさぬため、今後はアイネイアスとその子孫がトロイア人を治めるのだ」と言って救い出す。ローマ建国伝説との接点とされる一節。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アキレウスとの対決の前に、自らトロイア王家の系譜を長々と述べる。ダルダノス→エリクトニオス→トロスと下り、トロスの三子イロス・アッサラコス・ガニュメデスで枝分かれして、イロスの系統にラオメドンとプリアモスが、アッサラコスの系統にアンキセスと自分が並ぶ。プリアモス家とは別の王統であることが分かる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『イリアス』では二度、神に戦場から連れ出される。ディオメデスに石を投げつけられた時は母アプロディテが、アキレウスとの一騎討ちではポセイドンが救う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
名の由来は「恐ろしい悲しみ(アイノン・アコス)」と説明される。ホメロス風讃歌でアプロディテが、人間と交わった自分の悲しみゆえにこの名を付けると語る。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
『アエネイス』7.268-273 で婿に迎えると告げ、12.192-194 でアイネイアスが「義父ラティヌス」と呼ぶ。リウィウス 1.1.9 では実際に娘を嫁がせる
3.245-257 アポロンから聞いたという予言を告げる
『アエネイス』3.610-611 アンキセスが手を差し出して迎え、3.666-667 船に乗せて逃げる。3.690-691 シチリアの岸を案内する。『変身物語』14.220「ギリシャ人をトロイアの船が迎えた」
8.126-174 同盟を結ぶ。8.514-519 息子パラスと騎兵を預ける
『イリオスの陥落』要約では、ラオコオンの死を凶兆と見たアイネイアス一行がイダ山へ退く
5.166-296 アイネイアスの戦車に同乗して戦う
6.295-330
1.418-440 丘の上から建設中の町を見下ろす。4.259-264 ディドの町づくりを手伝っている
6.384-416 黄金の枝を見せられ、生者アイネイアスを舟に乗せる
7.25-36 テヴェレ川の河口から上陸
第6巻全体。クマエの巫女に導かれて生きたまま冥界を旅する
1.69.2-4 落城のときアイネイアスが城砦から持ち出し、イタリアへ運んだとする説
ダルダニア勢の将 2.819-821
2巻全体。落城を語る語り手でもある
20.302-308 「アイネイアスの子孫がトロイア人を治める」
讃歌5でアプロディテがイダ山でアンキセスと交わり、この子を産む
3.1-12 船団を率いて出航。2〜3巻は本人の語り(2.3 から 3.718 まで)