祭壇に逃れた老王プリアモスが、目の前で息子を殺されたうえで斬られる場面は、落城の残虐さを象徴する図像として古代から繰り返し描かれた。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
Ἰλίου πέρσις出来事
2004年の映画『トロイ』では、燃え落ちるトロイアから王子パリスとヘレネが逃げ延びる。けれど古代の物語では、パリスは町が落ちる前に死んでいて、ヘレネはかつての夫メネラオスの船へ連れ戻される。10年続いた戦争の最後の一夜は、映画よりずっと暗い夜だった。
では、トロイアが落ちたその一夜に何が起きたのか、たどってみよう。
意外なことに、トロイア戦争を描いた『イリアス』は、この夜を描いていない。物語は、トロイアの総大将ヘクトルの葬儀で終わる。落城のありさまは、今は失われた叙事詩のあらすじと、ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネイス』で伝わっている。『アエネイス』では、トロイアの勇将アイネイアスが、生き延びたのちに、自分の目で見たあの夜を語る。
ギリシャ軍が残した木馬を、トロイアの人々は城壁を切り開いて町に引き入れた。祝いの宴のあと、町が眠りに沈む。アイネイアスの夢に、死んだはずのヘクトルが現れた。戦車に引きずられたときのまま、血と土ぼこりにまみれ、足には革ひもを通された傷があった。ヘクトルは泣きながら告げる。逃げよ。敵はもう城壁の中にいる。トロイアは頂から崩れ落ちていく。この町の守り神たちを託す。彼らとともに海を渡り、新しい大きな都を築け。
目を覚ますと、町はもう燃えていた。木馬の腹から降りた兵たちが城門を開き、戻ってきたギリシャの大軍がなだれ込んでいた。アイネイアスは武器を取って飛び出し、仲間と戦ったが、流れは変えられなかった。
王宮の奥では、老王プリアモスが、長いあいだ身につけていなかった鎧を、震える肩にかけていた。中庭の大きな祭壇のそばには、王妃と娘たちが、嵐に追われた鳩のように身を寄せていた。王妃は夫を祭壇のそばに座らせる。今はそんな武器が役に立つときではない。ここにいれば祭壇が守ってくれる。守れなければ、一緒に死にましょう。
そこへ、王の息子の一人が、傷を負って回廊を逃げてきた。追ってきたのは、英雄アキレウスの息子だった。息子は、父と母の目の前で倒れて死んだ。老王は叫んだ。お前の父アキレウスは、敵の私に対してもそんな男ではなかった。嘆願する私を恥じ、ヘクトルの亡骸を返してくれた。老王が投げた力のない槍は、楯に当たってぶら下がっただけだった。アキレウスの息子は、わが子の血に足を滑らせる老王の髪をつかんで祭壇まで引きずり、剣を脇腹に柄まで突き立てた。アジアに君臨した王は、首のない名もない骸となって浜に横たわった。
アイネイアスの前に、母の女神アプロディテが姿を現し、人間の目にかかっている霧を払ってみせた。崩れる城壁を三叉の矛で揺さぶっているのは海の神ポセイドン。城門には女神ヘラが立ち、船からギリシャ兵を呼び寄せている。城の頂には、怪物ゴルゴンの首をつけた楯を輝かせる女神アテナ。ゼウスさえ、ギリシャ側に力を与えていた。神々そのものが、トロイアを滅ぼそうとしていた。
町のあちこちで、同じ夜に悲劇が重なった。女神アテナの神像にすがりついていた王女カッサンドラは、ギリシャの武将の一人に引き剥がされた。パリスの死後にヘレネの夫になっていた王子は、メネラオスに討たれ、ヘレネは船へ連れて行かれた。夜が明けると、ギリシャ軍は町に火を放って戦利品を分け、ヘクトルの幼い息子を城壁から投げ落とし、王女の一人をアキレウスの墓の前で生贄にした。

アイネイアスは、老いた父を背負い、幼い息子の手を引いて燃える町を出た。妻は後ろからついてくるはずだった。だが町はずれの古い神殿に着いてみると、妻の姿はなかった。アイネイアスは燃える町へ引き返し、声を限りに名を呼んだ。すると、いつもより大きな妻の影が目の前に現れて言った。これは神々の定め。あなたは長い旅の果てに西の国へ行き、そこで王国と新しい妻を得る。私たちの子を大切に。アイネイアスは三度その首に腕を回そうとし、三度とも影は腕をすり抜けた。

勝ったギリシャ軍にとっても、この夜は破滅の始まりだった。神像にすがる娘を引き剥がした冒涜に、女神アテナが怒ったのだ。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』、ウェルギリウス『アエネイス』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』
祭壇に逃れた老王プリアモスが、目の前で息子を殺されたうえで斬られる場面は、落城の残虐さを象徴する図像として古代から繰り返し描かれた。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
『アエネイス』第2巻は、落城を敗者の側から一人称で語る。ローマの叙事詩がトロイア人を祖先として描くため、同じ出来事がギリシャ側の武勲譚ではなく、破壊と喪失の物語として語り直されている。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
映画『トロイ』(2004)では戦争全体が数週間に圧縮され、神々は登場しない。アガメムノンはトロイアで殺され、パリスとヘレネは生き延びて脱出するなど、落城の顔ぶれと結末が原典と大きく異なる。
ウォルフガング・ペーターゼン監督『映画『トロイ』』 2004年
アイネイアスの夢に、引きずられた傷と血と土にまみれたヘクトルが現れ、敵が城壁を占めたから逃げよ、トロイアの聖物と守り神を託す、海を渡って大きな城壁を築け、と告げる。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
老プリアモスは使い慣れない鎧を着けて出ようとし、ヘカベに祭壇のそばへ座らされる。目の前で息子ポリテスがピュロス(ネオプトレモス)に殺されると、アキレウスは嘆願した私に遺体を返したと責めて力のない槍を投げ、ピュロスは彼を息子の血に滑らせながら祭壇へ引きずって殺した。亡骸は首のない名もない骸として浜に横たわる。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
ウェヌスはアイネイアスの目から霧を払い、ネプトゥヌスが三叉の矛で城壁を崩し、ユノがスカイア門に立ち、パラス(アテナ)が城砦に座り、ユピテル自身がギリシャ勢に力を与えている姿を見せる。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
逃げる途中で妻クレウサがはぐれ、アイネイアスが燃える町へ戻って名を呼ぶと、大きく見える妻の影が現れて、これは神々の定めで、長い旅の果てに西の地で王国と新しい妻を得ると告げる。三度抱こうとして三度すり抜けた。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
ギリシャ勢は町を焼いて戦利品を分け、アステュアナクスを城壁から投げ落とし、ポリュクセネをアキレウスの墓で生贄にした。カッサンドラはアガメムノン、アンドロマケはネオプトレモス、ヘカベはオデュッセウスに与えられた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
『イリアス』は落城を描かない。ヘクトルの葬儀で終わり、その先は読者(聴衆)が既に知っている話として置かれている。落城の場面を語るのは叙事詩環以降の作品である。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』 前7世紀頃
叙事詩環『イリオスの陥落』の要約には、ラオコオンと蛇、アイネイアス一行のイダ山への退去、シノン、城内での殺戮、プリアモスの死、カッサンドラと小アイアス、アステュアナクスの死、ポリュクセネの犠牲、アテナの怒りといった要素が並んでいる。後世の落城描写の骨格はここにある。
アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』 前7世紀頃
落城は勝者にとっても破滅の始まりになる。小アイアスがアテナの神像にすがるカッサンドラを引き剥がしたことで女神が怒り、ギリシャ勢の帰路(ノストイ)は難破と殺害の連続になる。
アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』 前7世紀頃、アギアス(伝)『帰国物語(ノストイ)』 前7世紀頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
戦争の結末にあたる出来事
捕虜として分配される
落城前夜の出来事
木馬の指揮者として。『イリオスの陥落』要約ではアステュアナクスを殺す
『イリオスの陥落』プロクロス要約「先に偽って城内に入っていたシノンが火の合図を上げる」。『小イリアス』断片(リュコプロン注解 344)。アポロドロス『摘要』5.19 はアキレウスの墓で合図の火を焚いたとする
落ちる街