アキレウスがポリュクセネに恋し、その縁談の席で待ち伏せされて殺された、という恋物語の筋は後代のもの。中世ヨーロッパのトロイア物語の主要な典拠となったダレスとディクテュスに見られ、アキレウスの死の説明として広まった。
ディクテュス・クレテンシス(偽)『トロイア戦争日誌』 4世紀(ラテン語版)、ダレス・プリュギウス(偽)『トロイア滅亡史』 5〜6世紀

Πολυξένη人間
ポリュクセネが犠牲に捧げられる場面。シャルル・ル・ブランの作。 『ポリュクセネの犠牲』 シャルル・ル・ブラン 1647年 メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)
トロイアが落ちたあと、帰国の船を出そうとするギリシャ軍の前で、大地が裂けた。現れたのは、死んだはずの英雄アキレウス。生きていたころと同じ大きな姿で、総大将に剣を向けたあの日の怒りの形相のまま、亡霊は言い放った。ギリシャの者どもよ、私を忘れて帰るのか。私の墓を誉れのないままにするな。トロイアの王女ポリュクセネを、私の霊への生贄にせよ、と。
ローマの詩人オウィディウスが描くこの場面から、ポリュクセネの物語を見ていこう。
ポリュクセネは、トロイアの老王プリアモスと王妃ヘカベの娘である。ただし『イリアス』にも『オデュッセイア』にも、その名は一度も出てこない。彼女の運命を最初に伝えるのは、トロイア落城を描いた失われた叙事詩『イリオスの陥落』の要約だ。ギリシャ軍は町を焼いたあと、アキレウスの墓の前でポリュクセネを犠牲に捧げた、と。
後の神話集では、アキレウスの亡霊が自分の取り分を求めたために、船出の風が止まったとされる。
オウィディウスの語る場面では、ポリュクセネは、もうほとんど彼女しか残っていなかった母の胸から引き離され、墓の前の祭壇へ連れて行かれる。剣を手に立って自分をじっと見つめるのは、アキレウスの息子だった。
王女は取り乱さなかった。さあ、この高貴な血を早く使いなさい。喉でも胸でも、剣を突き立てなさい。そう言って、自ら喉と胸をあらわにした。心残りは母のことだけだ、とも言う。母を苦しめるのは私の死ではなく、母自身がこれから生きていかなければならないことなのだから。そして男たちに、乙女の体に触れずに下がってほしい、自由な身のまま冥界へ行かせてほしいと頼み、最後に、亡骸はどうか身代金なしで母に返してほしい、と願った。
見守る人々は、王女がこらえた涙をこらえきれなかった。剣を振るう者までが、泣きながら刃を突き刺す。膝から崩れ落ちるときも、王女はひるまない顔のまま、倒れ方まで気を配って身を慎んだという。
悲劇作家エウリピデスも『ヘカベ』で同じ場面を描いている。そこでもポリュクセネは、奴隷として生きるより死を選ぶと言い切り、衣を裂いて胸を差し出して死んでいく。その毅然とした最期は、古代から名高い場面になった。
娘の亡骸を抱いた母ヘカベは、夫にも息子たちにも流してきた涙を、この娘にも注いだ。ヘカベの不幸は、まだ終わらない。
のちの時代には、まったく別の話も生まれた。アキレウスがポリュクセネに恋をして、その縁談の場で待ち伏せされて殺された、という恋物語である。中世ヨーロッパに広まったトロイアの物語は、この形でアキレウスの死を語っている。
この物語の出典: アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』、エウリピデス『ヘカベ』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ディクテュス・クレテンシス(偽)『トロイア戦争日誌』、ダレス・プリュギウス(偽)『トロイア滅亡史』
アキレウスがポリュクセネに恋し、その縁談の席で待ち伏せされて殺された、という恋物語の筋は後代のもの。中世ヨーロッパのトロイア物語の主要な典拠となったダレスとディクテュスに見られ、アキレウスの死の説明として広まった。
ディクテュス・クレテンシス(偽)『トロイア戦争日誌』 4世紀(ラテン語版)、ダレス・プリュギウス(偽)『トロイア滅亡史』 5〜6世紀
オウィディウスも同じ場面を描き、母ヘカベが娘の遺体を洗う場面へ繋げる。ヘカベの転落の連続として構成されている。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
オウィディウスでは、トラキアの岸で風を待つギリシャ軍の前に、生前の姿のアキレウスが大地を裂いて現れ、ポリュクセネを自分の霊への生贄にせよと命じる。ポリュクセネは母の胸から引き離され、ネオプトレモスの前で自ら喉と胸をあらわにし、男たちに触れずに下がるよう、亡骸は身代金なしで母に返すよう頼む。人々は泣き、刺す者も泣きながら刺した。倒れるときも身を慎んだ。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
『イリアス』にも『オデュッセイア』にもポリュクセネの名は一度も出てこない。プリアモスが息子たちを数える場面にも、トロイア落城後の女たちの運命にも現れない。ポリュクセネは叙事詩環以降の伝承で形を得た人物である。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃、アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』 前7世紀頃、Timothy Gantz『Early Greek Myth: A Guide to Literary and Artistic Sources』 1993年
落城後、アキレウスの亡霊が自分の取り分を求めて風を止めたため、その墓前でネオプトレモスの手で殺される。犠牲獣ではなく人間を屠るという点で、悲劇では繰り返し問題にされる。
アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』 前7世紀頃、エウリピデス『ヘカベ』 前424年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
エウリピデスでは、奴隷として生きるより死を選ぶと言い切り、殺される瞬間に衣を裂いて胸をあらわにし、倒れ方まで整えて死ぬ。この毅然とした最期は古代から名高い場面。
エウリピデス『ヘカベ』 前424年頃
3.12.5 プリアモスの娘たち