パリスを身ごもったとき、燃える松明を産み落として街が焼ける夢を見た。予言者の助言でパリスはイダ山に捨てられる。『イリアス』にこの夢は無い。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃

Ἑκάβη人間
ヘカベがポリュメストルの目をつぶす場面。ジュゼッペ・マリア・クレスピの作。 『ポリュメストルの目をつぶすヘカベ』 ジュゼッペ・マリア・クレスピ 18世紀前半 ベルギー王立美術館CC0
城壁の上で、年老いた母が衣の胸をはだけた。この乳を覚えているでしょう。これであなたを育てたのだ。どうか中へ入って、あの男と一人で戦わないで。
トロイアの王妃ヘカベ。王プリアモスの妻で、トロイアの守り手ヘクトル、戦争のもとをつくったパリス、予言を誰にも信じてもらえない王女カッサンドラの母である。国が滅びていくのを最初から最後まで見届けたこの母の物語を、たどってみよう。
災いの予感は、生まれる前からあった。アポロドーロスによれば、パリスを身ごもったヘカベは、燃える松明を産み落とし、その火が街じゅうに燃え広がる夢を見た。夢解きは、生まれる子を捨てよと告げ、赤ん坊は山に捨てられた。けれどもその子は生き延び、のちにスパルタの王妃ヘレネを連れ帰って、ギリシャ軍を呼び寄せることになる。
『イリアス』のヘカベは、戦のさなかの王妃として現れる。息子ヘクトルに言われて、トロイアの女たちを率い、いちばん美しい衣を女神アテナの神殿に捧げて、街を守ってくださいと祈った。女神は聞き入れなかった。
息子がアキレウスとの一騎打ちに臨もうとしたとき、城壁の上から胸をはだけて引き止めたのがこの母だった。ヘクトルは戻らず、討たれた。夫プリアモスが、遺体を取り戻すためにアキレウスの陣へ一人で行くと言い出すと、ヘカベは叫んだ。あの男の肝に歯を立てて食らいついてやりたい、と。遺体が戻ってくると、女たちの嘆きを先導して歌った。あなたは子どもたちの中でいちばんいとしい子だった。死んでもなお、神々に守られている、と。
『イリアス』が語るのはここまでだ。落城のあとのヘカベを描いたのは、悲劇作家エウリピデスだった。
『トロイアの女』では、トロイアの女たちがギリシャの将たちに分け与えられていく。白髪で杖をつくヘカベの主人に決まったのは、トロイアを落とす策を練ったオデュッセウスだった。ヘカベは、よりにもよってあの嘘つきの奴隷になるのか、と嘆く。同じ劇で、自分の不幸は美の女神たちの争いに巻き込まれたせいだと言い逃れするヘレネに、ヘカベは、女神たちがそんなくだらない争いをするはずがない、と言い返している。
悲劇『ヘカベ』は、さらに残酷だ。死んだアキレウスの亡霊が褒美を求め、ギリシャ軍は、ヘカベの末娘をその墓に捧げると決める。娘は、奴隷になるくらいなら死を選ぶと言って、自ら連れて行かれた。ヘカベに残された望みは、戦の前に黄金とともに友好国の王へ預けておいた末の息子だけだった。ところがその息子も、黄金に目がくらんだ王に殺され、海に捨てられていた。

ヘカベは、その王を黄金の話で天幕に誘い込み、トロイアの女たちと一緒に王の二人の子を殺し、王の目をつぶした。盲目になった王は、おまえはやがて犬に姿を変えるだろう、と予言する。
ローマの詩人オウィディウスは、それを本当にしてしまう。仇を討ったヘカベは、追ってくる王の国の人々に石を投げつけられ、それに噛みつこうとして、吠える犬になったという。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、エウリピデス『ヘカベ』、エウリピデス『トロイアの女』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
パリスを身ごもったとき、燃える松明を産み落として街が焼ける夢を見た。予言者の助言でパリスはイダ山に捨てられる。『イリアス』にこの夢は無い。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃
『イリアス』ではヘクトルの勧めでトロイアの女たちを率い、最も美しい衣をアテナの神殿に捧げて祈るが、女神は聞き入れない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アキレウスと戦おうとするヘクトルに、城壁から胸をはだけて「この乳で育てた」と訴えて引き止めようとするが、聞き入れられない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
落城後の運命として、最後に犬(あるいは雌犬)に姿を変えたと語られる。オウィディウスでは、末子ポリュドロスを殺したトラキア王ポリュメストルの目を抉ったのち犬になる。
エウリピデス『ヘカベ』 前424年頃、オウィディウス『変身物語』 8年頃
エウリピデス『トロイアの女』では、ヘレネがパリスの審判を持ち出して自分の責任を否定すると、ヘカベが「女神たちがそんな醜い争いをするはずがない」と反論する。神話を合理的に批判する場面として名高い。
エウリピデス『トロイアの女』 前415年
プリアモスがアキレウスの陣へ行こうとすると、ヘカベは止めようとし、アキレウスの肝に歯を立てて食らいつきたいと叫ぶ。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
戻ったヘクトルの遺体の前で、女たちの哀歌を先導し、子どもたちの中でいちばんいとしい子、死んでもなお神々に守られていると歌う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『トロイアの女』で、ヘカベはくじでオデュッセウスの奴隷と決まり、二枚舌の憎むべき敵だと嘆く。
エウリピデス『トロイアの女』 前415年
『ヘカベ』で、末子ポリュドロスは黄金とともにトラキア王ポリュメストルに預けられていたが、落城後に黄金目当てに殺されて海に捨てられる。ヘカベはポリュメストルを天幕に誘い込み、女たちとその二人の子を殺し、王の目をつぶす。
エウリピデス『ヘカベ』 前424年頃
トロイア側の王妃として
落城後、捕虜として分配される