木馬を城内に入れるなと警告しても聞き入れられない。『アエネイス』では「神がその言葉を信じさせなかった」と説明される。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃

Κασσάνδρα人間
神像にすがるカッサンドラを、アイアスが引き離す。ポンペイの壁画。 『パラディオンからカッサンドラを引き離すアイアス』 作者不詳(ポンペイの壁画)Public domain
正しいことを言っているのに、誰にも信じてもらえない人。英語ではそんな人を「カサンドラ」と呼ぶことがある。17世紀から使われてきたたとえだ。もとになったのは、滅びゆくトロイアの王女カッサンドラである。
カッサンドラは、トロイアの王プリアモスの娘で、英雄ヘクトルや、戦争の火種になった王子パリスの妹にあたる。
意外なことに、いちばん古い『イリアス』の彼女は予言者ではない。「プリアモスの娘たちの中でいちばん美しい」と紹介されるだけだ。彼女が見せる唯一の見せ場は、物語の最後にある。父王がアキレウスの陣屋から兄ヘクトルの遺体を運んで戻ってきたとき、城の上から最初にそれを見つけ、町じゅうに向かって嘆きの声を上げたのが、カッサンドラだった。
予言の力と呪いの話をはっきり語るのは、アテナイの悲劇作家アイスキュロスである。予言の神アポロンが彼女に恋をし、予言の力を授けた。カッサンドラは神の愛に応えると約束したのに、力を得たあとで拒んだ。怒ったアポロンは、力を取り上げる代わりに条件を一つ付け加えた。お前の予言は当たる。だが、誰もそれを信じない。
トロイアが滅びる日、その呪いはいちばん残酷な形で現れる。ローマの詩人ウェルギリウスによれば、ギリシャ軍が残していった巨大な木馬を、トロイアの人々が城の中へ引き入れようとしたとき、カッサンドラは破滅を告げた。神の定めで、その言葉を信じる者は一人もいなかった。人々は神殿を祝いの枝で飾り、その夜、町は落ちた。

落城の夜、カッサンドラは女神アテナの神像にすがりついていた。そこへギリシャの武将の一人が踏み込み、神像ごと彼女を引き剥がした。神の像にすがる者に手をかけるのは、許されない冒涜だった。この罪は、のちに帰国するギリシャ軍全体に災いを呼ぶことになる。

戦争が終わると、カッサンドラは総大将アガメムノンの戦利品として、ギリシャのミュケナイへ連れて行かれた。アイスキュロスの悲劇『アガメムノン』で、館の前に着いたカッサンドラは、中で何が起きるかを予言する。王は妻に殺される。自分も一緒に殺される。それでも、誰も彼女の言葉を真に受けない。すべてを知ったうえで、彼女は自ら館の中へ入っていく。
予言は当たった。10年ぶりに帰った夫アガメムノンを、妻は館の中で殺した。『オデュッセイア』では、冥界でアガメムノンの霊がオデュッセウスにこう語っている。すぐそばでカッサンドラが殺される、その哀れな声を聞いた、と。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』、アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』、ウェルギリウス『アエネイス』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
木馬を城内に入れるなと警告しても聞き入れられない。『アエネイス』では「神がその言葉を信じさせなかった」と説明される。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
『イリアス』のカッサンドラには予言の力も呪いも無い。「プリアモスの娘のうち最も美しい」と紹介され、父が運んできたヘクトルの遺体を城壁から最初に見つけて嘆きを上げる役である。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アポロンに求愛され、予言の力と引き換えに応じると約束しながら拒んだため、「予言は当たるが誰にも信じられない」呪いをかけられた。この経緯が語られる最も古い明確な典拠はアイスキュロス『アガメムノン』。
アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
落城の夜、アテナの神像にすがったところを小アイアスに襲われる。『イリオスの陥落』要約では神像ごと引き剥がしたとされ、アポロドーロスは神像にすがる彼女を辱めたと書く。この冒涜がギリシャ勢の帰路(ノストイ)の災いの原因とされる。
アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』 前7世紀頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アガメムノンの戦利品としてミュケナイへ渡り、クリュタイムネストラに殺される。『オデュッセイア』では死に際の声が語られ、アイスキュロスでは自分の死を予言しながら舞台に入っていく。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃、アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年
ヘレニズム期のリュコプロンは、カッサンドラの別名アレクサンドラを題にした難解な長詩を書き、その予言という形式でトロイア以後の地中海世界の歴史まで語らせた。
リュコプロン『アレクサンドラ』 前3世紀頃
カサンドラ(誰にも信じられない予言者)正しいことを言っているのに誰にも信じてもらえない人、の比喩。アポロンから予言の力を与えられたが、彼を裏切ったため「真実を語っても誰も信じない」という条件を付け加えられた、という伝承による。英語での比喩的用法は1660年代から。