『オデュッセイア』では殺害の主体はアイギストスで、彼女は「呪わしい妻」として加担する立場。ただしカッサンドラを斬ったのは彼女だと名指しされる。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃

Κλυταιμήστρα人間
斧を手に戸口に立つクリュタイムネストラ。コリアーの絵。 『クリュタイムネストラ』 ジョン・コリア 1882年Public domain
トロイア戦争に出かけるとき、ギリシャ軍の総大将アガメムノンは、宮廷の楽人に、妻の見張りを言いつけていった。10年後に帰った夫を殺したのは、その妻だった。
では、夫殺しの妻として名を残したクリュタイムネストラが、『オデュッセイア』から悲劇へと、どのように語られてきたのか見ていこう。
クリュタイムネストラは、スパルタの王妃レダの娘である。後の時代に神話をまとめたアポロドーロスによれば、レダは同じ夜にゼウスとも夫とも交わり、ゼウスの子として絶世の美女ヘレネが、夫の子としてクリュタイムネストラが生まれた。トロイア戦争の原因になったヘレネとは、半分だけ血のつながった姉妹になる。やがて姉妹は、ミュケナイの王アガメムノンと、その弟メネラオスにそれぞれ嫁いだ。
『オデュッセイア』では、主役は彼女ではない。夫の留守のあいだ、王家の親族アイギストスが、言葉巧みに彼女を口説き続けた。はじめ彼女は、分別を持って拒んでいた。そばには夫が見張りに残した楽人もいた。けれども神々の定めにとらわれたとき、アイギストスは楽人を無人の島に置き去りにして鳥の餌にし、彼女を自分の館へ連れていった。
凱旋した夫を宴に招いて殺したのはアイギストスで、妻はそれに手を貸した。冥界でオデュッセウスに会ったアガメムノンの亡霊は、牛小屋で牛を屠るように殺された、と語る。そして何より哀れだったのは、戦利品として連れ帰ったトロイアの王女カッサンドラの叫びだったと。カッサンドラを自分のすぐそばで殺したのは、妻だった。息絶えようとする夫の目を閉じてやることさえ、彼女はしなかった。
『オデュッセイア』では共犯者だった妻を、主犯にしたのは悲劇詩人アイスキュロスである。
アイスキュロスの『アガメムノン』で、夫は宮殿の中へ迎え入れられ、そこで殺される。妻は自分から語る。漁の網を投げるように、逃げられない衣を夫にかぶせた。二度打つと、夫は二度うめいて崩れた。倒れたところへ三度目を加えた。噴き出した血しぶきを浴びて、恵みの雨を受ける麦畑のように喜んだ、と。
アイスキュロスは、『オデュッセイア』にはない動機も与えた。出征の前、夫はアウリスの港で、風を得るために、長女を女神への犠牲にしていた。自分が産んだ娘を、夫は羊のように殺した。妻はそう言って自分の行いを正当化する。
やがて、成人した息子オレステスが、父の仇を討ちに戻ってくる。続く悲劇『供養する女たち』で、アイギストスが討たれたと知った彼女は、誰か斧を持ってこい、と叫ぶ。けれども息子と向き合うと、胸をはだけて命乞いをした。眠りながら、歯のない口でこの乳を吸ったのを憐れんでおくれ。
オレステスはためらい、友に尋ねた。母を見逃すべきか。友は答えた。人を敵に回しても、神を敵に回すな。母は最後に言った。母の恨みの猟犬に気をつけよ。そして自分が見た夢を思い出す。自分が産み、乳をやっていたのは蛇だったのだと。
死んでもなお、彼女は黙らなかった。三部作の最後の『慈しみの女神たち』では、母の亡霊が現れ、眠りこけている復讐の女神たちを叩き起こして、母殺しの息子を追わせようとする。

『オデュッセイア』は、オレステスが母を殺したとははっきり書いていない。
この物語の出典: ホメロス『オデュッセイア』、アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
『オデュッセイア』では殺害の主体はアイギストスで、彼女は「呪わしい妻」として加担する立場。ただしカッサンドラを斬ったのは彼女だと名指しされる。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
アイスキュロス『アガメムノン』では自ら斧(あるいは剣)をふるい、返り血を「麦の実に降る雨のように喜んだ」と誇る。この場面以降、ヨーロッパの文学では「夫を殺した妻」として彼女が主犯になる。
アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年
レダとテュンダレオスの娘。同じ夜にゼウスとも交わったレダは、ゼウスからヘレネとポリュデウケスを、テュンダレオスからカストルと彼女を産んだとされる。つまりヘレネとは半分だけ姉妹にあたる。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ギリシャ語の綴りには ν の無い Κλυταιμήστρα と、ν のある Κλυταιμνήστρα の二系統がある。『オックスフォード古典学辞典』は見出しを Clytaem(n)estra / Κλυταιμ(ν)ήστρα と両論併記したうえで、ν の無い短い形のほうがよく裏づけられるとする。現代語の「クリュタイムネストラ/Clytemnestra」は長い方の形に基づく。
『オックスフォード古典学辞典』 第4版 2012年
アイスキュロスは動機をイピゲネイアの犠牲への復讐として明示する。ホメロスにはイピゲネイアが存在しないため、この動機も存在しない。悲劇が付け加えた筋である。
アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年
オレステスによる母殺しを、ホメロスは明言しない。『オデュッセイア』3.306-310 はオレステスがアイギストスを討ったと語り、続けて「母と臆病なアイギストスの葬礼をアルゴス人に振る舞った」とだけ言う。母殺しを正面から劇にするのはアイスキュロス『供養する女たち』である。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃、アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年
アガメムノンは出征の際、歌い手に妻の見張りを命じた。クリュタイムネストラははじめアイギストスの誘いを拒んだが、神々の定めで屈したとき、アイギストスは歌い手を無人島に置き去りにして鳥の餌にし、彼女を自分の館へ連れていった。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
『アガメムノン』で彼女は、魚を捕る網のように逃げられない衣を夫にかぶせ、二度打って倒し、さらに三度目を加えたと語る。血しぶきを浴びて、天の雨に喜ぶ種まかれた大地のように喜んだという。
アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年
『供養する女たち』では、アイギストスの死を知って斧を求めるが、オレステスと向き合うと胸をはだけて憐れみを乞う。ピュラデスは「すべての人を敵にしても神々を敵にするな」と答え、彼女は「母の恨みの猟犬に気をつけよ」と警告し、自分が産んだのは蛇だったと夢を思い出す。
アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年
『慈しみの女神たち』では、彼女の亡霊が眠っている復讐の女神たちを叩き起こし、オレステスを追わせようとする。
アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年
『オデュッセイア』で、アガメムノンの亡霊は、死にゆく自分の目も口も妻が閉じてくれなかったと語る。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
3.10.7。ヘレネがゼウスの子とされるのに対し、彼女はテュンダレオスの子とされる
3.10.7
3.10.7
『オデュッセイア』11.409-411。『ノストイ』プロクロス要約。アポロドロス『摘要』6.23