アキレウスを不死にしようとして火にかざした(あるいは冥界の川に浸した)という話は、ホメロスには無い。ホメロスのアキレウスは普通に傷つき、踵の弱点も語られない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

Θέτις神
女神テティスが赤子のアキレウスを冥界の川ステュクスに浸す場面。奥には、死者を舟で渡す渡し守カロンが見える(連作「アキレウスの生涯」の下絵)。ペーテル・パウル・ルーベンスの作。 『赤子のアキレウスをステュクスの川に浸すテティス』 ペーテル・パウル・ルーベンス 1630〜1635年ごろ ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館Public domain
神々の王ゼウスが妻にしようとして、あきらめた女神がいる。海の女神テティス。英雄アキレウスの母である。
ゼウスでさえ手を引いたのはなぜか。そして、人間に嫁がされた女神は、息子のために何をしたのか。順にたどってみよう。
テティスは、海の老人と呼ばれる神の50人の娘たちの一人だった。その美しさに、ゼウスと海の神ポセイドンの兄弟が競って求婚した。そこへ掟の女神テミスが告げる。テティスの産む子は、父親よりも強くなる定めにある、と。自分の父を倒して王になったゼウスには、聞き捨てならない予言だったろう。二人の神はそろって手を引き、テティスは人間の王ペレウスに嫁がされる。
テティス自身は、この結婚を望んでいない。後の神話集によれば、ペレウスは賢者の助言に従って彼女を待ち伏せし、力ずくで捕まえた。テティスは火に、水に、獣にと姿を変えて逃れようとしたが、ペレウスは元の姿に戻るまで決して手を離さなかった。『イリアス』でも、テティスは自分の結婚を嘆いている。海の娘たちの中で私だけが、望みもしないのに人間の男に嫁がされた、と。
その婚礼には神々がこぞって集まった。争いの女神エリスが騒ぎを起こし、トロイア戦争の種がまかれたのも、この宴である。
生まれた息子を、テティスは不死にしようとした。夫に隠れて、夜ごと赤ん坊を火にかざし、父から受け継いだ死すべき部分を焼き払おうとしたのである。昼には神々の香油を塗った。ところがある夜、火の中で身をよじる赤ん坊を見たペレウスが叫び声を上げる。邪魔をされたテティスは、赤ん坊を置いて海の姉妹たちのもとへ帰ってしまった。冥界の川に浸したという有名な話は、もっと後の時代のものだ。
息子がトロイアへ行けば死ぬ。それを知っていたテティスは、後の神話集によれば、幼いアキレウスに娘の服を着せて、ある島の王宮に隠した。それでも息子は見つけ出され、戦場へ向かった。
『イリアス』のテティスは、ずっと息子のそばにいる。アキレウスが総大将に名誉を傷つけられて泣くと、海の底から霧のように立ち上ってきて、息子の頭をなでた。どうしてお前を育てたのだろう。お前の命は短いのに、その上だれよりも不幸だなんて。
それでもテティスは息子の願いを聞き入れ、オリュンポスへ上った。ゼウスの膝を抱き、顎に手を触れる嘆願の姿勢で、息子の名誉が回復されるまでトロイア勢を勝たせてほしいと頼む。ゼウスには恩があった。かつて神々がゼウスを縛り上げようとしたとき、百の腕を持つ巨人を呼んで救ったのがテティスだったのである。ゼウスはうなずき、オリュンポスが揺れた。

親友パトロクロスが討たれ、アキレウスの叫びが海の底まで届くと、テティスは姉妹たちと声を合わせて嘆いた。ああ、最も優れた子を産んだばかりに、最も不幸な母になった私。育てた息子を送り出したが、もう二度と家に迎えることはない、と。
鎧を奪われた息子のために、テティスは鍛冶の神ヘパイストスの館を訪ね、新しい武具を作ってもらう。ヘパイストスが断らなかったのは、天から落とされた幼い彼を、テティスが9年間かくまって育てたからだった。
息子の最期を、テティスも止めることはできない。失われた叙事詩『アイティオピス』によれば、アキレウスが討たれると、テティスは詩の女神たちと姉妹を連れて嘆きに来た。そして火葬の薪から息子の亡骸をさらい、遠い「白い島」へ運び去ったという。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、アルクティノス(伝)『アイティオピス』、作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』、ピンダロス『祝勝歌集』、スタティウス『アキレイス』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
アキレウスを不死にしようとして火にかざした(あるいは冥界の川に浸した)という話は、ホメロスには無い。ホメロスのアキレウスは普通に傷つき、踵の弱点も語られない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アポロドーロスによれば、トロイアへ行けば息子が死ぬ運命と知っていたテティスは、アキレウスに女の服を着せ、娘としてリュコメデスの宮廷に預けた。オデュッセウスがラッパの音で正体を見破り、アキレウスはトロイアへ向かった。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アポロドーロスでは、テティスは赤子を夜ごと火にかざして父から受けた死すべき部分を焼き、昼はアンブロシアを塗った。火の中でもがく子を見たペレウスが叫ぶと、テティスは子を置いてネレイスたちのもとへ去った。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
海の老人ネレウスの五十人の娘(ネレイデス)の一人。『イリアス』18巻では姉妹たちが名を連ねて嘆きに加わる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ヘシオドス『神統記』 前700年頃
アキレウスの頼みでオリュンポスに上り、ゼウスの膝を抱き顎に手を触れる嘆願の姿勢で、トロイア勢を勝たせて息子の名誉を回復するよう求めた。ゼウスは頷き、オリュンポスが揺れる。『イリアス』の筋はここから動く。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アキレウスは母への頼みの根拠として、かつてヘラとポセイドンとアテナがゼウスを縛ろうとしたときテティスが百手のブリアレオスを呼んで助けた、という事件を持ち出す。この反乱未遂は『イリアス』のこの箇所でしか語られない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ゼウスとポセイドンが争って求婚したが、テミスが「彼女は父に勝る子を産む」と告げたため二神とも退き、人間ペレウスに嫁がされた。神々の秩序を守るために一人の女神が人間に与えられる。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半
『縛られたプロメテウス』では、この予言こそプロメテウスが握る秘密であり、彼はゼウスに名を明かさずに対峙する。テティスの結婚がゼウスの支配の存続と直結している。
アイスキュロス(伝)『縛られたプロメテウス』 前5世紀
『イリアス』のテティスは自分の結婚を嘆く。「神々の中で私だけが耐えがたい苦しみを与えられた。人間の男に嫁がされ、その人は今や老いて床にいる」と語る。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
パトロクロスと共にアキレウスの武具が奪われたため、ヘパイストスに新しい武具一式を依頼する。かつて自分が匿った恩から、ヘパイストスは断らない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
パトロクロスの死を嘆くアキレウスの声を聞き、テティスは姉妹たちと嘆く。「ああ、最も優れた子を産んだ不幸な私」と言い、育てて送り出した息子を二度と家に迎えられないと嘆く。『イリアス』1巻でも、命の短い息子をなぜ育てたのかと泣く。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『アイティオピス』の要約では、アキレウスの死後、テティスがムーサたちや姉妹とともに来て息子を嘆き、火葬の薪から亡骸をさらって「白い島」(レウケ)へ運んだ。
アルクティノス(伝)『アイティオピス』 前7世紀頃
『神統記』243-244 同じネレウスの娘として続けて名が挙がる
240-244, 350 娘ドリスの子がテティス
『キュプリア』梗概。テティスの婚礼が舞台
1.396-406 神々がゼウスを縛ろうとしたとき、テティスがブリアレオスをオリュンポスに呼んで救う
24.77-99。海の底のテティスを呼び出し、ゼウスのもとへ連れて行く
907-927。ゼウスを倒す子を産む女(=テティス)の秘密を握っており、これがゼウスとの取引材料になる
11.221-223 「父より偉大な息子を産む」と告げる
『ノストイ』プロクロス要約 ネオプトレモスに警告し、陸路を取らせる。アポロドロス『摘要』6.5、6.12