アイスキュロス『縛られたプロメテウス』では、プロメテウスの母はテミスで、テミスとガイアは「多くの名をもつ一つの姿」だとされる。ヘシオドスでプロメテウスの母はオケアノスの娘クリュメネなので、ここで系譜が大きく入れ替わる。
アイスキュロス(伝)『縛られたプロメテウス』 前5世紀

Θέμις神
掟の女神テミスの大理石像。ラムヌスで見つかった。 『ラムヌスのテミス』 作者不詳 前300年ごろ(コモンズの説明による) アテネ国立考古学博物館。写真 Gary Todd(2016年)CC0
大洪水で人類が滅びたあと、生き残ったのはたった一組の夫婦だけだった。二人は苔むした神殿の石段にひれ伏し、冷たい石に口づけをして祈った。どうすれば人間をもう一度よみがえらせられるのか、教えてほしい、と。
答えたのは、そのころ神託を預かっていた女神テミスである。神殿を出て、頭を覆い、帯をほどき、偉大な母の骨を背後に投げよ。ローマの詩人オウィディウスが伝えるこの謎めいたお告げを、夫はこう解いた。偉大な母とは大地のこと、その骨とは大地の中の石のことだ。二人が顔を覆って背後に投げた石は、やがて人間の姿に変わっていった。

掟と正しい秩序の女神テミス。その姿を、古い詩からたどってみよう。
テミスは、大地の女神ガイアと天空の神ウラノスの娘で、ゼウスより前の世代の神々、ティタン族の一人だ。『神統記』では、ゼウスの二番目の妻になる。二人のあいだに生まれたのは、季節の女神たち。その名は秩序、正義、平和を意味する。人間に幸と不幸を割り当てる三人の運命の女神も、テミスの娘とされた。掟の女神から、秩序と正義と平和が生まれるという系譜である。
『イリアス』や『オデュッセイア』では、テミスは神々の集まりを取り仕切る。ゼウスの命令で神々を会議に呼び集めるのも、ゼウスに叱られてオリュンポスに戻ってきたヘラに、真っ先に杯を差し出して何があったのかと尋ねるのも、この女神だ。人間の側でも、集会を開くのも解くのもテミスだ、と言われていた。
アポロンの神託で名高いデルポイも、もとはテミスのものだったという伝えがある。悲劇作家アイスキュロスの劇では、デルポイの巫女が神託所の持ち主の移り変わりを語る。最初は大地の女神ガイア、次にその娘テミス、さらに別の女神の手を経て、最後に誕生祝いとしてアポロンに譲られた。洪水のあとの夫婦が祈ったのは、アポロンより前に神託を預かっていたころのテミスだったわけである。
テミスの言葉は、神々の運命さえ動かした。海の女神テティスをめぐって、ゼウスとポセイドンが争ったことがある。そのときテミスは告げた。テティスは、父より強い子を産む定めにある、と。二人の神は手を引き、テティスは人間の王に嫁いだ。生まれた子が、英雄アキレウスである。
トロイア戦争そのものも、ゼウスがテミスと相談して計画したものだった、と失われた叙事詩『キュプリア』は語っていた。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』、ピンダロス『祝勝歌集』、アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』、オウィディウス『変身物語』
アイスキュロス『縛られたプロメテウス』では、プロメテウスの母はテミスで、テミスとガイアは「多くの名をもつ一つの姿」だとされる。ヘシオドスでプロメテウスの母はオケアノスの娘クリュメネなので、ここで系譜が大きく入れ替わる。
アイスキュロス(伝)『縛られたプロメテウス』 前5世紀
オウィディウスでは、大洪水を生き延びたデウカリオンとピュラが、当時神託を預かっていたテミスの神殿に祈り、女神は「神殿を出て頭を覆い、帯を解き、偉大な母の骨を背後に投げよ」と答える。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
オウィディウスでは、デウカリオンが女神のお告げを解く。偉大な母とは大地、その骨とは大地の中の石のことだ、と。二人が頭を覆って石を背後に投げると、石は人間に変わった。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
『神統記』でテミスはウラノスとガイアの娘、ティタンの女神の一柱として、ムネモシュネと並んで名が挙がる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ゼウスはメティスの次にテミスを妻とし、季節の女神ホライ——エウノミア(秩序)、ディケ(正義)、エイレネ(平和)——と、運命の女神モイライ(クロト、ラケシス、アトロポス)が生まれる。ただし同じ『神統記』は、運命の女神たちを夜(ニュクス)の娘としても挙げている。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ホメロスのテミスは神々の集会を取り仕切る女神で、『イリアス』ではゼウスの命で神々を集会に呼び集め、『オデュッセイア』ではテレマコスが「集会を解きもし開きもするテミス」の名にかけて民に訴える。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
アイスキュロス『慈しみの女神たち』の冒頭で、デルポイの巫女は神託所の持ち主の順を、最初の予言者ガイア、その娘テミス、ポイベ、そして誕生祝いに譲られたポイボス(アポロン)と語る。アポロンより前にテミスが神託を預かっていたという伝え。
アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ピンダロスでは、ゼウスとポセイドンがテティスを争ったとき、テミスが「テティスは父より強い子を産む定め」と告げ、二神はテティスを人間ペレウスに嫁がせる。この子がアキレウスになる。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半
叙事詩『キュプリア』の梗概(プロクロス)は、ゼウスがテミスと相談してトロイア戦争を起こす計画を立てるところから始まる。
作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』 前7世紀頃
132-135
135
135
『神統記』135-136。『慈しみの女神たち』2-8 ではテミスからデルポイの座を継ぐ
135-136
『慈しみの女神たち』2-6。アポロドーロス1.4.1 アポロンが来たとき神託を告げていたのはテミス
1.367-381。水が引いたあと、人間を取り戻す方法を神託で告げる
プロクロスの梗概の冒頭「ゼウスはテミスと相談してトロイア戦争を計画する」
209-218 力ではなく策略で勝つ者が支配すると予言した
正義の女神像と天秤(テミス像)西洋の裁判所には天秤が置かれている。百科事典によれば、天秤で量ることには人の勝手な手加減が入る余地がないので、天秤は正しいか邪であるかを量る神の道具とされた。このため、正義の女神とされるアストライアやテミスの像は天秤を掲げている。テミスは「掟」という意味の名をもつギリシャ神話の女神で、正義と秩序をつかさどる。ゼウスの二番目の妻となって、季節の女神たちや運命の女神たちを産み、アポロンに代わるまではデルポイの神託の主だったとも伝えられる。