パウサニアスが伝えるボイオティアのトロポニオスの神託所では、相談者は穴に降りる前に「忘却(レテ)の水」を飲んでそれまでの考えを忘れ、次に「記憶(ムネモシュネ)の水」を飲んで下で見たことを覚えておく。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀

Μνημοσύνη神
灯火を手にした記憶の女神ムネモシュネ。ロセッティの絵。 『ムネモシュネ』 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 1876〜1881年ごろPublic domain
記憶を助ける工夫のことを、英語でニーモニックという。この語は、ギリシャ語の「記憶」から来ている。その記憶そのものを女神にしたのが、ムネモシュネである。
『神統記』によれば、ムネモシュネは天と大地のあいだに生まれた、古い世代の神々ティタンの一人だった。掟の女神テミスとは姉妹にあたる。

この女神のもとに、ゼウスが通った。九夜続けて。一年後、ムネモシュネは、雪をいただくオリュンポスの頂から少し離れたところで、九人の娘を産んだ。詩と音楽の女神ムーサたちである。

記憶の娘が、歌の女神になる。『イリアス』の詩人は、戦に集まった大勢の名を並べる前に、女神たちに頼んでいる。あなたがたはその場にいてすべてを知っているが、わたしたちは噂を聞くだけだ、と。過去を語れるのは記憶の娘たちが語らせてくれるから、という考え方がここに表れていると読める。
それでいて『神統記』は、この娘たちを、災いを忘れさせ、悲しみを休ませるものとも呼んでいる。記憶の女神の子が、人に忘れることをもたらす。
神々をたたえる古代の詩『ヘルメス讃歌』には、生まれたばかりのヘルメスが、兄アポロンの前で初めて竪琴を弾く場面がある。神々の生まれを歌うとき、ヘルメスがまっ先にたたえたのが、ムーサたちの母ムネモシュネだった。
古代の旅行家パウサニアスは、ギリシャ中部の、地下の穴に降りてお告げを受ける神託所の話を伝えている。相談に来た者は、穴に降りる前に二つの泉の水を飲む。一つは忘却の水。それまで考えていたことを忘れるためだ。もう一つが、この女神の名と同じ「記憶」の水で、これを飲むと、地下で見聞きしたことを覚えていられる。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、パウサニアス『ギリシア案内記』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
パウサニアスが伝えるボイオティアのトロポニオスの神託所では、相談者は穴に降りる前に「忘却(レテ)の水」を飲んでそれまでの考えを忘れ、次に「記憶(ムネモシュネ)の水」を飲んで下で見たことを覚えておく。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀
『神統記』でムネモシュネはウラノスとガイアの娘、ティタンの女神の一柱としてテミスと並んで名が挙がる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ゼウスはピエリアでムネモシュネと九夜を共にし、一年後に彼女は九人の娘ムーサたちを産む。数の九が夜の数と重ねられている。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ヘシオドスは、記憶の女神が産んだムーサたちを「災いを忘れさせ、悲しみを休ませるもの」と呼ぶ。記憶の娘が人に忘却をもたらす、という逆説がここにある。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『ヘルメス讃歌』では、生まれたばかりのヘルメスがアポロンの前で竪琴を弾き、神々の生まれを歌うとき、まず「ムーサたちの母」ムネモシュネを讃える。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
ホメロスの詩人は、戦に来た者たちの名を列挙する前にムーサたちに呼びかけ、「あなたがたはすべてを知っているが、我々は噂を聞くだけだ」と歌う。記憶の娘たちに頼って過去を語る、という叙事詩の構えがよく表れた箇所。ここにムネモシュネの名は出ないが、ヘシオドスの系譜と組み合わせると意味がつながる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ニーモニック / mnemonic英語 mnemonic(記憶を助ける、1753年)は、ギリシャ語 mnēmonikos「記憶の」から来ている。元の mnēmē(記憶)は、記憶の女神ムネモシュネの名と同じ「覚えている」という語根に属する。女神の名から作られた語というより、同じ根から出た親戚にあたる。