プラトン『国家』の「エルの物語」では、生まれ変わる前の魂は、灼けつくように暑く草木一本ない「レテ(忘却)の野」を進み、夕方「アメレス(放念)の川」のほとりで野営する。その水は器に留めることができず、定められた量を飲まねばならない。分別のない者は飲みすぎ、飲んだ者はみなすべてを忘れた。ここでは忘却の名は野のほうについていて、川の名は別。
プラトン『国家』 前375年頃
Λήθη場所
英語で、だるくて何もする気が起きない状態を lethargy という。もとをたどると、ギリシャ語の「忘却」に行き着く。そして同じ「忘却」の否定形が、ギリシャ語では「真理」を意味した。隠されていないこと、忘れられていないこと、が真理なのである。
その「忘却」が、そのまま名になったのが、冥界のレテだ。死者が水を飲むとすべてを忘れるという、忘却の川である。この川がどのように生まれてきたのか、たどってみよう。
いちばん古い出典には、川は出てこない。ヘシオドスの『神統記』では、忘却は争いの女神エリスが産んだ子の一人として登場する。兄弟には、労苦、飢え、苦しみ、戦い、殺し合い、偽りの言葉などが並ぶ。忘却は、場所ではなく、人間を苦しめる力の一つだった。
冥界の地名として詳しく描いたのは、哲学者プラトンの『国家』である。その最後に、戦死して12日目に生き返った兵士が見てきた、死後の世界の話がある。生まれ変わる魂たちは、次の人生を選び終えると、焼けつくように暑く、草木一本生えない「忘却の野」を進んでいく。夕方になると、放念という名の川のほとりで野営した。その川の水は、どんな器にも留めておけない。魂たちは決められた量を飲まなければならず、分別のない者は飲みすぎた。飲んだ者は皆、すべてを忘れた。ここでは、忘却の名は野のほうについていて、川は別の名で呼ばれている。
忘却の川としてのレテがはっきり姿を現すのは、ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネイス』だ。トロイアの勇士アイネイアスは、冥界で亡き父に再会する。冥界の奥の人里離れた谷に林があり、静かな住まいの前をレテの川が流れていた。そのまわりを、夏の野原で花から花へと群がる蜂のように、数えきれない魂が飛び交っている。
何なのかと尋ねる息子に、父は答えた。あれは、次の体を与えられることになっている魂たちだ。レテの川で、憂いを消す水と長い忘却を飲んでいるのだ。千年のめぐりを終えた魂は、神に呼ばれてこの川へ集まり、上の世界を忘れて、ふたたび体に戻りたいと願うようになる。

アイネイアスは、思わず問い返した。父上、魂がまた重い体に戻っていくなど、本当にあるのですか。なぜそれほどまでに、この世の光を恋しがるのですか。
この物語の出典: ヘシオドス『神統記』、プラトン『国家』、ウェルギリウス『アエネイス』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
プラトン『国家』の「エルの物語」では、生まれ変わる前の魂は、灼けつくように暑く草木一本ない「レテ(忘却)の野」を進み、夕方「アメレス(放念)の川」のほとりで野営する。その水は器に留めることができず、定められた量を飲まねばならない。分別のない者は飲みすぎ、飲んだ者はみなすべてを忘れた。ここでは忘却の名は野のほうについていて、川の名は別。
プラトン『国家』 前375年頃
プラトンより少し前、アリストパネス『蛙』(前405年)にも「レテの野」という言い方が出てくる。前5世紀末のアテナイで、すでに冥界の地名として通じていたことがうかがえる。
アリストパネス『蛙』 前405年上演
ウェルギリウスでは、はっきり「レテの川」になる。エリュシオンの奥の谷を流れる川の周りに無数の魂が蜂のように群がっており、父アンキセスは、次の体を与えられる魂たちがレテの川の水で長い忘却を飲むのだとアイネイアスに説明する。千年の巡りを終えた魂は、上の世界の記憶を忘れて再び体に戻る。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
ギリシャ語 λήθη(忘却)は「隠れている」を意味する動詞 λανθάνειν と同じ語根から。英語 lethargy(無気力、昏睡)は λήθη と ἀργός(怠惰な)から成る λήθαργος(忘れっぽい)に由来する。また「真理」を意味するギリシャ語 ἀλήθεια は、否定の a- と λήθη からなり、「隠されていないこと」と分析される。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
アンキセスの説明を聞いたアイネイアスは、魂がふたたび重い体に戻るなど本当にあるのか、なぜそれほどこの世の光を恋しがるのか、と問う。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
ヘシオドス『神統記』では、レテは場所ではなく擬人化された「忘却」で、争いの女神エリスが生んだ子の一つ。同じ兄弟には労苦、飢え、苦しみ、戦い、殺人、偽りの言葉などが並ぶ。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
プラトン『国家』のエルは戦死したパンピュリア人の兵士で、死後12日目、火葬の薪の上で生き返り、あの世で見たことを語った。
プラトン『国家』 前375年頃
lethargy(無気力)/ アレテイア(ἀλήθεια=真理)英語 lethargy は14世紀後半から(当初の綴りは litarge、-th- の綴りは1590年代から)。ギリシャ語 λήθαργος(忘れっぽい)に由来し、λήθη(忘却)と ἀργός(怠惰な)から成るとされ、「忘れて動かなくなる」状態を指した。同じ λήθη に否定の a- を付けた ἀλήθεια は「真理」を意味し、語源辞典によれば、もとの形容詞は文字どおりには「隠さない」の意味だという。冥界の忘却の川レテの名は、この普通名詞そのもの。