ヒュギヌスでは、婚礼に呼ばれなかったエリス(ラテン名ディスコルディア)が戸口から林檎を投げ入れ、「最も美しい者が取るように」と声に出して言う。つまりここでも銘は刻まれていない。
ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃
μῆλον τῆς Ἔριδος物品
英語には「不和の林檎(アップル・オブ・ディスコード)」という言い回しがある。争いの種、という意味だ。1400年ごろから使われてきたこの言葉のもとは、神々の婚礼の席に投げ込まれた一個の黄金の林檎である。
この林檎がどうやってトロイア戦争を引き起こしたのか、そして有名な「最も美しい女神へ」という銘がいつ付いたのか、たどってみよう。
のちにアキレウスの両親となる英雄と海の女神が結婚するとき、神々は皆、婚礼の宴に招かれた。ただ一人、争いの女神エリスを除いて。ラテン語の神話集を残したヒュギヌスによれば、遅れてやって来たエリスは宴の席に入れてもらえなかった。そこで彼女は、戸口から林檎を一つ投げ入れて言った。いちばん美しい者が、これを取るがいい。

名乗りを上げたのは、神々の女王ヘラ、知恵と戦いの女神アテナ、愛と美の女神アプロディテの三柱だった。激しい言い争いになり、ゼウスは伝令神ヘルメスに命じて、三女神を、トロイア近くの山にいる王子パリスのもとへ連れて行かせ、彼に判定させることにした。
女神たちは、それぞれに贈り物を約束した。アポロドーロスによれば、ヘラは、すべての人間を治める王の座を。アテナは、戦での勝利を。アプロディテは、スパルタの王妃ヘレネを妻にすることを。パリスはアプロディテを選んだ。林檎は愛の女神のものになり、パリスはスパルタへ船出してヘレネを連れ帰る。ヘラとアテナは、このときからトロイアの敵になった、とヒュギヌスは書き添えている。

では、林檎の銘はどこから来たのか。実は、古い出典には見当たらない。トロイア戦争の発端を語った、今は失われた叙事詩『キュプリア』のあらすじでは、エリスが婚礼に現れて三女神のあいだに「誰がいちばん美しいか」という争いを起こした、とあるだけで、林檎そのものが出てこない。アポロドーロスは林檎を投げたと書くが、銘には触れない。ヒュギヌスでも、「いちばん美しい者が取れ」は、エリスの口から出た言葉だった。
林檎に言葉が書かれていたと、はっきり記すもので確かめられるいちばん古いものは、2世紀の作家ルキアノスの小品である。そこでは、エリスが宴に投げ込んだ黄金の林檎に「美しい者が私を取れ」と書かれていて、ヘルメスがそれを読み上げる。それより古い出典の林檎には、何も書かれていなかった。
この物語の出典: 作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ルキアノス『対話篇(神々の対話・海神たちの対話)』、『オックスフォード英語辞典』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』、『オックスフォード古典学辞典』
ヒュギヌスでは、婚礼に呼ばれなかったエリス(ラテン名ディスコルディア)が戸口から林檎を投げ入れ、「最も美しい者が取るように」と声に出して言う。つまりここでも銘は刻まれていない。
ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃
「最も美しい女神へ」という銘が林檎に刻まれていた、という形は古い出典には無い。確認できるかぎり最も古く銘を明記するのは2世紀のルキアノスで、『海神たちの対話』5 では、エリスが宴に投げ込んだ黄金の林檎に「美しい者が私を取れ」と書かれており、ヘルメスがそれを読み上げる。
ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃、ルキアノス『対話篇(神々の対話・海神たちの対話)』 2世紀後半、『オックスフォード古典学辞典』 第4版 2012年
アポロドーロスでは、エリスが美しさをめぐって林檎を投げ込み、ヘラ・アテナ・アプロディテが争う形が明確に語られる。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
「不和の林檎(apple of discord)」は、争いの種そのものを指す慣用句として近代語に定着した。英語では1400年頃から見え、ペレウスとテティスの婚礼にエリスが投げ込んだ林檎の話として説明される。
『オックスフォード英語辞典』 現代、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
アポロドーロスでは、ヘラはすべての人間を治める王権、アテナは戦の勝利、アプロディテはヘレネとの結婚を約束した。ヒュギヌスでは、ヘラは全土の支配と富、ミネルウァは人間で最も勇敢で万事に長じること、ウェヌスはヘレネを約束し、敗れたユノとミネルウァはトロイアに敵意を抱いた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃
叙事詩環『キュプリア』の現存する要約に、林檎は出てこない。ペレウスの婚礼にエリスが現れてヘラ・アテナ・アプロディテの間に「誰が最も美しいか」の争いを起こし、ゼウスの命でヘルメスが三女神をイダ山のアレクサンドロスのもとへ導く、と書かれるだけである。ヘラとアテナの贈り物も出てこない。
作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』 前7世紀頃