喜劇『鳥』では「黒い翼の夜」がエレボスの懐で風の卵を産み、そこから黄金の翼のエロスが孵ったと歌われる。後代の「宇宙卵」の神話と比べられる一節。
アリストパネス『鳥』 前414年上演

Νύξ神
黒い衣をなびかせて空を渡る「夜」。ブグローの絵。 『夜』 ウィリアム・アドルフ・ブグロー 1883年Public domain
神々の王ゼウスが、怒りを収めてまで気を遣った相手がいる。夜の女神ニュクスだ。
『イリアス』で、眠りの神が昔の失敗を打ち明ける。女神ヘラに頼まれて、ゼウスを眠らせたことがあった。そのすきにヘラは、ゼウスの息子ヘラクレスの船を嵐で流してしまう。目を覚ましたゼウスは怒り狂い、神々を館じゅうに放り投げ、とりわけ眠りの神を探し回った。見つかれば天から海の底へ投げ落とされるところだった。眠りの神が逃げ込んだ先が、神々も人も従わせる夜のもとだった。ゼウスは怒ってはいたが、素早い夜の気に障ることを恐れて、手を引いた。
ゼウスさえ遠慮するこの夜とは、何者なのか。
夜はゼウスよりずっと古い。『神統記』によれば、世界のはじめにまず生じたのは、何もないぽっかりとした空間カオスだった。そのカオスから、闇と、夜が生まれた。夜は闇と交わって、輝く上空の大気と、昼を産んだ。夜から昼が生まれたのである。
夜はさらに、誰とも交わらずにたくさんの子を産んだ。定め、死の運命、死、眠り、夢の一族。非難と苦悩。世界の西の果てで金の林檎を守る娘たち。運命の女神たち。人の思い上がりを罰する女神ネメシス。欺き、愛欲、老い。そして争いの女神エリス。人間をしばり、苦しめる力の多くが、夜の子として並んでいる。のちに黄金の林檎を投げ込んでトロイア戦争の種をまくエリスも、その一人だ。
『神統記』は夜の住まいも描いている。大地の果て、巨人アトラスが天を支えているそのそばに、夜の館がある。夜と昼は、その青銅の敷居のところですれ違い、声をかけ合う。一方が館に入るとき、もう一方は外へ出ていく。二人が同時に家にいることは決してない。夜は、死の兄弟である眠りを腕に抱いて出かけていく。

後の時代には、夜をめぐって別の始まりの話も作られた。喜劇作家アリストパネスの『鳥』では、黒い翼をもつ夜が闇のふところで卵を産み、そこから黄金の翼をもつ愛の神エロスが孵ったと、鳥たちが歌う。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、アリストパネス『鳥』
喜劇『鳥』では「黒い翼の夜」がエレボスの懐で風の卵を産み、そこから黄金の翼のエロスが孵ったと歌われる。後代の「宇宙卵」の神話と比べられる一節。
アリストパネス『鳥』 前414年上演
『神統記』では、最初に生じたカオスからエレボス(闇)と夜が生まれ、夜はエレボスと交わってアイテル(輝く上空の大気)と昼を産む。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
夜は「誰とも床を共にせずに」、定め(モロス)、死の運命(ケール)、死(タナトス)、眠り(ヒュプノス)、夢の一族、非難、苦悩、ヘスペリデス、運命の女神たち、ネメシス、欺き、愛欲、老い、争い(エリス)を産んだ。人間を縛る暗い力の多くが夜の系統にまとめられている。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『イリアス』でヒュプノスは、かつてヘラに頼まれてゼウスを眠らせた結果、目覚めたゼウスに天から放り出されかけ、「神々と人間をも従わせる夜」のもとへ逃げ込んで助かったと語る。ゼウスは素早い夜の気分を害することを恐れて怒りを収めた。ホメロスでゼウスが遠慮する相手はほとんどいない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
夜の館は大地の果て、アトラスが天を支えるそばにあり、夜と昼はその青銅の敷居ですれ違って挨拶を交わす。二人が同時に家にいることはない。夜はヒュプノス(死の兄弟)を腕に抱いている。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
争いの女神エリスも夜の子で、エリスはさらに労苦・忘却・飢え・争闘・殺戮・偽りの言葉・誓い(偽誓を罰する神)などを産む。パリスの審判の発端になるエリスの、ヘシオドスでの系譜。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
眠りの神がゼウスを眠らせたのは、ヘラがトロイアから帰るヘラクレスの船を嵐でコス島へ流すためだった。怒ったゼウスは神々を館じゅうに放り投げ、眠りの神を天から海へ落とそうとしたが、夜のもとへ逃げ込まれて手を引いた。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
冥王星の衛星ニクス(Nix)冥王星のまわりを回る小さな衛星。2005年6月、ハッブル宇宙望遠鏡を使った天文学者たちが見つけた。NASAによれば、名前は、闇と夜のギリシャの女神ニュクスにちなむ。冥王星のいちばん大きな衛星カロンの名は冥界の渡し守から取られていて、NASAはニュクスをそのカロンの母と説明している。ギリシャ語の Nyx の名はすでに小惑星3908番が持っていたため、国際天文学連合は、同じ女神のエジプトでの呼び名にあたる Nix を使うことにした。探査機ニュー・ホライズンズは、この衛星の表面に赤みがかった斑点を写している。