タナトスという語は、20世紀の精神分析で「死の欲動」を指す用語として、生の欲動を表す「エロス」と対にして使われるようになった。英語での用例は1935年から。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)

Θάνατος神
眠り(ヒュプノス)と、その兄弟の死(タナトス)。ウォーターハウスの絵。 『眠りとその異母兄弟の死』 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 1874年Public domain
安楽死を英語でユーサネイジアという。「良い死」という意味で、後ろ半分はギリシャ語の「死」、タナトスから来ている。精神分析では、人の中にある死へ向かう衝動を、愛の神の名エロスと対にしてタナトスと呼ぶこともある。そのタナトスは、ギリシャ神話では一人の神だった。
では、死そのものである神がどんな姿で語られたのか、見ていこう。
『神統記』によれば、タナトスは夜の女神の子である。父の名は書かれていない。同じ母から、眠りの神ヒュプノスと、夢の一族が生まれた。死と眠りは、兄弟だった。
二人は大地の果て、夜の館のそばに住んでいる。同じ兄弟でも、性質はまるで違う。眠りは穏やかに地上や海をめぐり、人間にやさしい。死のほうは、鉄の心と青銅のように無慈悲な胸を持ち、一度つかんだ人間を決して放さない。不死の神々からさえ嫌われている、と『神統記』は書く。
『イリアス』で、この兄弟がそろって姿を見せる場面がある。ゼウスの息子の一人が、トロイア方の味方として戦い、ギリシャ方に討たれた。ゼウスは息子の亡骸を戦場から運び出させ、清めて香油を塗らせたうえで、「双子の眠りと死」に託した。二人は亡骸を、はるか遠い故郷の国まで運んでいった。
死の神がいちばんはっきりした役を演じるのは、エウリピデスの悲劇『アルケスティス』である。ある王の身代わりとなって死ぬことになったのは、その若い妻アルケスティスだった。
その妻を迎えに来たタナトスに、アポロンが猶予を求める。タナトスは聞き入れない。若い者の命を取るほうが、自分の誉れは大きいのだから。アポロンは言い残して去る。やがてある男がやって来て、お前から彼女を力ずくで奪い取るだろう。
予言どおりになった。王の館に客として立ち寄った英雄ヘラクレスが、事情を知る。ヘラクレスは墓のそばで、黒衣をまとった死の神を待ち伏せ、組み伏せて、アルケスティスを生者の世界へ連れ戻した。人間の英雄が、死そのものと格闘して勝つ。ギリシャ神話でもめったにない筋書きである。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、エウリピデス『アルケスティス』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
タナトスという語は、20世紀の精神分析で「死の欲動」を指す用語として、生の欲動を表す「エロス」と対にして使われるようになった。英語での用例は1935年から。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
『神統記』で夜は、定め・死の運命(ケール)に続いて死(タナトス)を産み、眠りと夢の一族を産む。父の名は書かれない。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
死と眠りの兄弟は夜の館のそばに住む。眠りは人間に穏やかだが、死は鉄の心と青銅のように無慈悲な胸を持ち、一度つかんだ人間を放さず、不死の神々からさえ憎まれる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『イリアス』でゼウスの子サルペドンが倒れると、ゼウスは亡骸を「双子の眠りと死」に託し、故郷リュキアへ運ばせる。ホメロスでタナトスが人格的に動くのはこの場面ぐらいで、多くの箇所では θάνατος は「死」という普通名詞として出てくる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
エウリピデス『アルケスティス』の冒頭で、夫アドメトスの身代わりに死ぬことになったアルケスティスを連れに来たタナトスに、アポロンが猶予を求める。タナトスは「若い者の命を取るほうが誉れが大きい」と拒み、アポロンは、やがてある男がお前から彼女を力ずくで奪うだろう、と予言する。
エウリピデス『アルケスティス』 前438年上演
予言どおり、アドメトスの館に客として来たヘラクレスが事情を知り、墓のそばで黒衣の死者の王タナトスを待ち伏せて取り押さえ、アルケスティスを連れ戻す。ヘラクレスは「死霊たちの主と格闘した」と語る。死の神が力で負かされる、珍しい筋書き。
エウリピデス『アルケスティス』 前438年上演
安楽死 / euthanasia英語 euthanasia(1640年代)はギリシャ語 euthanasia「安らかな死」から来ていて、eu-「良い」と thanatos「死」を組み合わせた語。もとは「穏やかで楽な死」の意味で、法的に認められた安楽死の意味での用例は1869年から。