エウリピデスでは、ヘラクレスが墓のそばで待ち伏せ、死神タナトスを腕で捕らえて彼女を取り返す。戻った彼女は、冥界の神々への清めが済む3日目まで口をきけない、とされる。
エウリピデス『アルケスティス』 前438年上演

Ἄλκηστις人間
横たわるアルケスティスの亡骸のそばで、ヘラクレスが死の神と組み合う場面。フレデリック・レイトンの作。 『アルケスティスの亡骸をめぐって死神と組み合うヘラクレス』 フレデリック・レイトン 1869〜1871年ごろ ワズワース・アセーニアム美術館Public domain
夫の命を救うために、誰かが代わりに死ななければならない。年老いた父も母も、それを断った。引き受けたのは、若い妻ただ一人だった。
妻の名はアルケスティス。夫の身代わりに死んだ王妃の物語を見ていこう。
アルケスティスは、ある王の娘だった。英雄イアソンに金の羊毛を取りに行かせた、あの王である。『イリアス』では、その娘たちのうちで最も容姿の優れた女として名前が出てくる。
後の神話集によれば、父王は、娘の婿の条件として、獅子と猪を一台の車につないで見せることを求めた。これを果たしたのが、隣の国の王アドメトスである。ただし、本当に獣をつないだのは、光の神アポロンだった。
アポロンはそのころ、ゼウスの怒りを買った罰として、1年のあいだ人間に仕えなければならなかった。仕えた先がアドメトスの家で、神は牛飼いとして働き、牛にみな双子を産ませたという。
婚礼の日、アドメトスは犠牲を捧げながら、狩りの女神アルテミスへの捧げ物を忘れてしまう。花嫁の部屋の戸を開けると、中はとぐろを巻いた蛇でいっぱいだった。アポロンは女神の怒りを鎮めるよう教え、さらに運命の女神たちに願い出て、ひとつの約束を取りつけた。アドメトスが死ぬ定めの日が来ても、誰かが進んで代わりに死ぬなら、アドメトスは死を免れる、と。
そして、その日が来る。父も母も、息子の代わりに死ぬことを断った。代わりに死ぬと言ったのは、妻のアルケスティスだけだった。
悲劇作家エウリピデスは、この話を『アルケスティス』という劇にしている。妻が息を引き取ったその日、アドメトスの館に、英雄ヘラクレスが立ち寄った。王の命令で、人食い馬を取りに行く旅の途中だった。アドメトスは妻の死を隠し、亡くなったのは身寄りのないよその女だとごまかして、客を手厚くもてなす。悲しみの家と知っていたら、客は入ってこなかったろうから。
あとで真相を知ったヘラクレスは、この主人の心づかいに報いようと決める。墓のそばで待ち伏せし、死を運ぶ神を腕で捕らえて組み伏せ、アルケスティスを取り返した。それから、ヴェールをかぶせた女を連れてアドメトスの前に現れ、競技の褒美にもらった女だ、しばらく預かってくれ、と言い張る。しぶしぶ手を差し出したアドメトスの前で、ヘラクレスがヴェールを取ると、そこにいたのは妻だった。ただし戻ってきた彼女は、冥界の神々への清めが済む3日目まで、口をきくことができないとされる。
どうやって戻ってきたかは、伝えによって違う。後の神話集は、冥界の女王ペルセポネが彼女を地上へ送り返したと書き、ヘラクレスが冥界の王と戦って連れ戻したという説も並べている。哲学者プラトンの『饗宴』では、神々が彼女の献身に感心して、魂を冥界から帰してやった。妻を連れ戻しに冥界へ下りながら、妻の幻しか見せてもらえなかった歌い手オルペウスと、そこで比べられている。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、エウリピデス『アルケスティス』、プラトン『饗宴』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
エウリピデスでは、ヘラクレスが墓のそばで待ち伏せ、死神タナトスを腕で捕らえて彼女を取り返す。戻った彼女は、冥界の神々への清めが済む3日目まで口をきけない、とされる。
エウリピデス『アルケスティス』 前438年上演
アポロドーロスはまず「コレ(ペルセポネ)が彼女を地上へ送り返した」と書き、別説として「ヘラクレスがハデスと戦って連れ戻した」を併記する。相手が死神タナトスではなくハデスになっている。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
プラトン『饗宴』では、神々が彼女の献身に感心して魂を冥界から帰した、とされ、ヘラクレスは出てこない。同じ箇所で、冥界に下っても妻の幻しか見せてもらえなかったオルペウスと対比される。
プラトン『饗宴』 前4世紀前半
父ペリアスは、獅子と猪を車に繋いだ者に娘を与えると言い、アポロンの助けを得たアドメトスがこれを果たした。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
父ペリアスは、イアソンに金羊毛を取りに行かせた王。アルケスティスはその娘たちの一人として名が挙がる。ペリアスはのちに、メデイアに「若返らせる」とだまされた娘たちの手で切り刻まれ煮られて死ぬ(アポロドーロスはその娘たちの名を挙げていない)。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アポロドーロスでは、アドメトスは婚礼の犠牲でアルテミスへの捧げ物を忘れ、花嫁の部屋を開けるととぐろを巻いた蛇でいっぱいだった。アポロンは女神をなだめるよう命じ、モイライ(運命の女神たち)から、アドメトスが死ぬときに誰かが進んで代わりに死ねば免れる、という恩恵を得た。アポロンは、ゼウスの雷を作ったキュクロプスを殺した罰として1年アドメトスに仕え、牛にみな双子を産ませていた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ホメロスでは、トロイアへ出陣したエウメロスの母で、「ペリアスの娘たちのうち容姿の最も優れた」女として名が出るだけ。夫の身代わりに死んだ話はない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アドメトスの死の日が来たとき、父も母も身代わりを断り、妻アルケスティスだけが代わりに死ぬと言った。
エウリピデス『アルケスティス』 前438年上演、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
エウリピデスでは、ディオメデスの馬を取りに行く途中のヘラクレスがアドメトスの館に立ち寄り、アドメトスは妻の死を隠して、死んだのは身寄りのないよその女だと言って客をもてなす。悲しみを知れば客は入らなかったからだという。真相を知ったヘラクレスは、苦境にあっても自分を追い返さなかった主人に報いるため、墓のそばでタナトスを待ち伏せすると決める。のちにヴェールをかぶせた女を競技の褒美だと言って預け、ヴェールを取ると妻だった。
エウリピデス『アルケスティス』 前438年上演
『イリアス』2.715、アポロドーロス1.9.10