オウィディウスでは、眠り(ソムヌス)の館はキンメリオイ人の国の近く、光の届かない洞窟にあり、忘却の川レテが流れる。ユノの使いのイリスが訪れると、ソムヌスは千人の息子の中から人の姿をまねる名人モルペウスを選んで夢を届けさせる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃

Ὕπνος神
眠り(ヒュプノス)と、その兄弟の死(タナトス)。ウォーターハウスの絵。 『眠りとその異母兄弟の死』 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 1874年Public domain
「催眠術」を英語でヒプノティズムという。眠りを誘う作用を持つ薬のモルヒネは、夢の神モルペウスの名から付けられた。この二つの言葉をたどっていくと、同じ一柱の神に行き着く。眠りの神ヒュプノスと、その息子である。
では、眠りの神ヒュプノスが、神話の中でどんな役を演じたのか見ていこう。
『神統記』によれば、ヒュプノスは夜の女神の子で、死の神タナトスとは兄弟だった。二人は夜の館のそばに住み、そこには太陽の光が決して届かない。けれど性格は正反対だ。眠りは大地と海の上を静かに巡り、人間に優しい。死は鉄の心を持ち、一度つかんだ人間を決して放さない。
『イリアス』でヒュプノスが大役を任される場面がある。トロイア戦争のさなか、ゼウスはトロイア勢を勝たせていた。ギリシャ勢の味方をしたい女神ヘラは、夫ゼウスを誘惑して眠らせてしまおうと考える。そしてエーゲ海のレムノス島で「死の兄弟である眠り」に会い、ゼウスを眠らせてほしいと頼んだ。
ヒュプノスは渋った。ほかの神なら、たとえ大洋の流れでも眠らせてみせる。だがゼウスだけはごめんだ。以前にも、ヘラに頼まれてゼウスを眠らせたことがあった。その隙にヘラは、ゼウスの息子ヘラクレスの船を嵐で遠くの島へ流してしまった。目を覚ましたゼウスは怒り狂って神々を館じゅうに放り投げ、ヒュプノスも天から海へ投げ落とされるところだった。母である夜のもとへ逃げ込んで、やっと助かったのだという。
ヘラは報酬を上げた。優美の女神カリスたちの中でも若い一人を、お前の妻にあげよう。ヒュプノスがずっと恋い焦がれてきた相手だった。ヒュプノスはヘラに、神々にとっていちばん重い誓い、冥界の川にかけた誓いを立てさせてから、引き受けた。
ヘラがゼウスに近づくあいだ、ヒュプノスはトロイア近くの山の高い樅の木に登り、枝に隠れて鳥の姿で待った。ゼウスがヘラの腕の中で眠り込むと、ヒュプノスはギリシャ勢の船へ駆けつけて海の神ポセイドンに知らせ、戦況はギリシャ側へ傾いていった。
同じ『イリアス』には、もっと静かな場面もある。ゼウスの息子の一人がトロイア側で戦って討たれると、ゼウスは亡骸を清めさせ、「双子の眠りと死」に運ばせた。眠りと死の兄弟は、戦士の亡骸をはるか遠い故郷まで運び、家族のもとで葬らせた。

ローマの詩人オウィディウスは、眠りの神の館を描いている。光の届かない国の近くにある洞窟で、そばには忘却の川が流れていた。女神の使いが訪ねてくると、眠りの神は千人いる息子の中から、人の姿をまねるのがいちばん上手なモルペウスを選び、夢として送り出した。モルヒネの名は、この夢の神から来ている。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、オウィディウス『変身物語』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
オウィディウスでは、眠り(ソムヌス)の館はキンメリオイ人の国の近く、光の届かない洞窟にあり、忘却の川レテが流れる。ユノの使いのイリスが訪れると、ソムヌスは千人の息子の中から人の姿をまねる名人モルペウスを選んで夢を届けさせる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
眠りの神の息子モルペウスの名は、1816年ごろドイツの薬剤師ゼルチュルナーが、眠りを誘う作用からアヘンの主成分を「モルフィン(morphine)」と名づけるのに使われた。オウィディウスが夢の神に付けた名が、麻酔薬の名として残った。
オウィディウス『変身物語』 8年頃、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
『神統記』で夜は死(タナトス)と眠り(ヒュプノス)と夢の一族を産む。二人は夜の館のそばに住み、太陽の光が届かない。眠りは大地と海を静かに巡って人間に優しいが、死は鉄の心を持つ、と対比される。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『イリアス』14巻でヘラはレムノス島で「死の兄弟である眠り」に会い、ゼウスを眠らせてほしいと頼む。ヒュプノスは、前にヘラの頼みでゼウスを眠らせたとき、目覚めたゼウスに神々を放り投げられ、自分も海に投げ込まれかけたが夜のもとへ逃げて助かった、と渋る。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ヘラが報酬として、カリスたちの中でも若い一人パシテエを妻に与えると約束すると、ヒュプノスはステュクスの水にかけて誓わせてから引き受ける。眠りの神と優美の女神の縁組は、ホメロスにしか出てこない組み合わせ。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ゼウスが眠るまで、ヒュプノスはイダ山の高い樅の木に登って枝に隠れ、鳥の姿でいた。その鳥は「神々はカルキス、人間はキュミンディスと呼ぶ」と説明され、神々の言葉と人間の言葉で名が違うというホメロスの珍しい言い回しが出てくる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ゼウスの子サルペドンがパトロクロスに討たれると、ゼウスはアポロンに命じて亡骸を清めさせ、「双子の眠りと死」にリュキアへ運ばせて故郷で葬らせる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ヒュプノスがかつてヘラの頼みでゼウスを眠らせたのは、ヘラクレスがトロイアを攻め落として船出した日で、ヘラはその間に嵐を起こしてヘラクレスをコス島へ流した。目覚めたゼウスは神々を館じゅうに放り投げ、ヒュプノスは夜(ニュクス)のもとへ逃げて助かった。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
催眠 / hypnosis・hypnotism催眠術を指す hypnotism は、1843年にマンチェスターの医師ジェイムズ・ブレイドが neuro-hypnotism(1842年)を縮めて作った語で、hypnosis は1850年にその代わりの語として作られた。どちらもギリシャ語 hypnos(眠り)から作られた接頭辞 hypno- を使っている。
モルヒネ / morphineアヘンの主成分モルヒネは、1816年ごろドイツの薬剤師ゼルチュルナーが、眠りを誘う作用から夢の神モルペウス(Morpheus)の名をとって名づけた。モルペウスはオウィディウス『変身物語』で眠りの神ソムヌス(ヒュプノス)の息子として登場する夢の神で、名はギリシャ語 morphē(姿・形)から来ている。