英語に「ハルシオン・デイズ」という言い方がある。穏やかで平和な日々のこと。もとは、冬のさなかに海が凪ぐ数日間を指していた。伝説の鳥ハルキュオン、つまりカワセミが、波の上の巣で卵を温める期間だとされたのである。
そのカワセミになったのが、王妃アルキュオネだ。なぜ人が鳥になり、冬の海が凪ぐようになったのか。ローマの詩人オウィディウスの語る物語で見ていこう。
アルキュオネは、風の神の娘で、ある国の王ケユクスの妻だった。二人は深く愛し合っていた。
あるとき、ケユクスは神託を聞きに、海を渡って遠い神殿へ行くと言い出す。それを聞いたアルキュオネは、骨まで凍るような思いがした。三度言いかけては、三度泣き崩れる。そして訴えた。風の神の娘だから、海の風がどれほど荒れ狂うものか、子どものころから見て知っている。陸の道ならまだしも、海はやめて。どうしても行くなら、私も連れて行って、と。
ケユクスは、二か月のうちに必ず戻ると約束して船出した。アルキュオネは浜に立ち、帆が見えなくなるまで見送る。
その夜、海は大嵐になった。船は砕け、ケユクスは波にのまれながら、最後まで妻の名を呼び続けた。
何も知らないアルキュオネは、毎日、神々の女王ヘラの祭壇に香をたき、夫が無事に帰るよう祈り続ける。もう死んだ者のための祈りに耐えられなくなったヘラは、虹の女神イリスを、眠りの神の館へ遣わした。眠りの神は、日の光も届かない洞窟に住んでいる。鶏も犬も鳴かず、風も枝を揺らさない。忘却の川がかすかな音を立てて流れ、戸口の前には眠りを誘うケシの花が咲いている。
眠りの神は、人の姿をまねるのが得意な息子を送り出した。息子は死んだケユクスの姿になって、びしょ濡れの青ざめた顔でアルキュオネの枕もとに立つ。私が分かるか、かわいそうな妻よ。お前の祈りは届かなかった。私は死んだ。嵐が船を砕き、私は最後までお前の名を呼んでいた。涙を流して、私を弔ってくれ、と。
アルキュオネは眠りながら腕を伸ばし、空をつかんで叫んだ。待って、どこへ行くの、私も一緒に行く。
夜が明けると、アルキュオネは夫を見送った浜へ向かった。沖から、何かが流れてくる。近づくにつれて、それは人の亡骸だと分かる。夫だった。アルキュオネは防波堤に駆け上がり、海へ身を投げる。
その瞬間、背に翼が生えた。アルキュオネは悲しげな声で鳴きながら波の上をかすめ飛び、夫の亡骸を翼で抱いて、くちばしで口づけする。神々は二人をあわれみ、夫も鳥の姿に変えた。鳥になっても、二人の愛は変わらない。
冬の穏やかな7日間、アルキュオネは海に浮かぶ巣で卵を温める。そのあいだ、父の風の神は風を閉じ込めて外に出さず、孫たちのために海を凪がせるのだという。
ところが後の神話集は、まったく違う話を伝えている。二人は思い上がって互いをゼウスとヘラと呼び合い、怒ったゼウスに鳥に変えられた、というのである。
この物語の出典: テオクリトス『牧歌(エイデュリア)』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』