『イリアス』における神々の伝令はイリスである。ゼウスの命令を運び、ヘラの密使となり、しばしば人間に姿を変えて現れる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

Ἶρις神
雲に乗って舞い降りる虹の女神イリス(右上)。ゲランの絵。 『モルペウスとイリス』 ピエール=ナルシス・ゲラン 1811年Public domain
鏡で自分の目をのぞくと、黒目のまわりに色のついた輪が見える。虹彩だ。英語ではこれをアイリスと呼ぶ。花のアヤメも、酸に溶かすと色とりどりに変わる金属元素イリジウムも、同じ言葉から来ている。もとをたどると、ギリシャ語で「虹」、そして虹の女神イリスに行き着く。
空に架かる虹は、天と地をつなぐ橋のようにも見える。その虹の女神は、神々のあいだでどんな役目を負っていたのか、見ていこう。
イリスは、神々の伝令である。『神統記』によれば、海の神の一族と大洋の神の娘とのあいだに生まれ、風のように速い怪鳥ハルピュイアたちと姉妹だった。
『イリアス』では、イリスは風のような足で天と地と海を飛び回る。ゼウスの命令を届けるだけではない。人間に化けて現れることも多い。トロイアの王女に姿を変えてヘレネを呼びに行き、両軍の一騎打ちを見に城壁へ連れ出したのもイリスだった。ゼウスの言いつけに背いて戦場へ向かおうとしたヘラとアテナのもとへ飛び、引き返さなければ馬を傷つけ、車を砕き、雷で10年は癒えない傷を負わせる、という警告を伝えたこともある。
ときには、ゼウスに内緒の用事も引き受けた。親友パトロクロスの亡骸をめぐって両軍が争っているとき、ヘラはひそかにイリスをアキレウスのもとへ送る。鎧が無くて戦えないと言う英雄に、イリスは告げた。そのままの姿で濠のそばに立ち、トロイア人に姿を見せればよい、と。アキレウスが叫び声を上げると、トロイア勢は震え上がって退いた。
アキレウスの祈りを風に届けたのもイリスだ。パトロクロスを焼く薪に、どうしても火が回らない。アキレウスは北風と西風に供物を約束して祈った。イリスはそれを聞きつけて、宴の最中の風の神々の館へ飛ぶ。一緒に座っていけと誘われても、大洋の果てのエチオピア人の地で神々への宴に加わるのだと断り、用件だけ伝えて去っていった。風たちは轟音とともにトロイアへ吹きつけ、薪は一晩じゅう燃え続ける。
戦いの終わり近くには、ゼウスの使いとして、海の底にいるアキレウスの母を呼び出す。さらに悲しみに沈むトロイアの老王プリアモスのもとへ降りて、息子ヘクトルの遺体を取り返しに行け、というゼウスの言葉を届けた。
神々どうしが誓いを立てるとき、遠い冥界のステュクス川の水を黄金の水差しで汲んでくるのも、イリスの仕事だった。
不思議なことに、同じくホメロスの『オデュッセイア』には、イリスは一度も出てこない。そこで神々の使者を務めるのは、伝令の神ヘルメスである。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
『イリアス』における神々の伝令はイリスである。ゼウスの命令を運び、ヘラの密使となり、しばしば人間に姿を変えて現れる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『オデュッセイア』にイリスは現れない。使者の役目はすべてヘルメスが果たす。同じ作者に帰せられる二篇の間で、神々の分業が違っている。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
タウマスとオケアノスの娘エレクトラの子で、ハルピュイア(奪い去る者たち)と姉妹。風のように速い者同士が同じ血筋にまとめられている。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
神々が互いに誓いを立てるとき、ゼウスの命でイリスが遠いステュクスの水を黄金の瓶に汲んでくる、とヘシオドスは書く。偽りの誓いを立てた神は一年間息も声も失う。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ホメロスは虹そのものをイリスと呼ぶ比喩も用いる。楯の三色の蛇を「クロノスの子が雲に掛ける虹(イリス)」に喩える箇所がある。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
パトロクロスの薪に火が付かず、アキレウスが北風と西風に祈ると、イリスが西風の館へ伝えに行く。宴に誘われても座らず、オケアノスの流れのほとりのエチオピア人の地で神々への犠牲の宴に加わるのだと言って断った。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
イリスはプリアモスの娘ラオディケに姿を変えてヘレネを呼びに行き、メネラオスとパリスの一騎打ちを見るよう城壁へ誘う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『神統記』265-266 息子タウマスとエレクトラの娘
4.693-705 死にきれずにいるディドのもとへユノがイリスを送り、髪を一房切って魂を解き放つ
11.585-632 ユノの使いのイリスが眠りの館を訪れる
23.198-211 イリスが西風の館の宴に来てアキレウスの祈りを伝える
8.397-413。ゼウスはイデ山からイリスを遣わし、イリスは「襞多きオリュンポスの門の入口で」ヘラとアテナを引き止める。オリュンポスに住まう神々の伝令として描かれる(支配者ではない)
イリジウム / iridium元素イリジウム(1804年命名)。発見者のテナントが、塩酸に溶かすときにさまざまな色を見せることから、ギリシャ語 iris(虹)にちなんで名づけた。虹を神にしたのが、神々の使者イリスである。
虹彩 / iris眼球の色のついた輪(虹彩)。ギリシャ語 iris は虹・アヤメ・眼の虹彩のすべてを指し、オリュンポスの神々(特にヘラ)の使者イリスは虹そのものとして表された。英語では14世紀末にアヤメ、15世紀初めに眼の虹彩の意で現れる。形容詞 iridescent(1784年)も同語源。