ルキアノスの『神々の対話』では、アポロンがヘルメスに、ヒュアキントスの死は、少年に恋していた西風の嫉妬のせいだと打ち明ける。西風がタユゲトス山から吹き下ろして円盤を少年の頭に当てた。パウサニアスも、アミュクライの祭壇の話のあとで「西風のこと、アポロンが意図せずヒュアキントスを殺したこと、花の話」を、事実ではないかもしれない伝承として挙げる。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀、ルキアノス『対話篇(神々の対話・海神たちの対話)』 2世紀後半

Ζέφυρος神
ゼピュロスがニンフのクロリスを抱き、クロリスが春の女神フローラに変わる場面(ウフィツィ美術館の解説)。サンドロ・ボッティチェリの作。 『春(プリマヴェーラ)部分 ゼピュロス、クロリス、フローラ』 サンドロ・ボッティチェリ 1480年ごろ ウフィツィ美術館(フィレンツェ)Public domain
ボッティチェリの名画『ヴィーナスの誕生』。貝に乗って岸に着く女神の左で、頬をふくらませて息を吹きかけている、翼のある若者がいる。絵を所蔵するウフィツィ美術館の説明によると、これが西風の神ゼピュロスだ。海の泡から生まれた女神は、この風に吹き寄せられて、キュプロス島にたどり着いたところなのだという。

同じ画家の『春(プリマヴェーラ)』の右端にも、青ざめた肌の姿で、逃げるニンフに手を伸ばすゼピュロスが描かれている。
ルネサンスの名画に二度も顔を出すこの風の神は、ギリシャ神話ではどんな風だったのか。たどってみよう。
ヘシオドスの『神統記』によれば、ゼピュロスは夜明けの女神エオスの息子で、北風ボレアス、南風ノトスと兄弟だった。この三つの風は神々の血をひく風で、人間にとって大きな恵みになる。船や畑を荒らすほかの乱暴な風は、怪物テュポンから生まれたのだという。
とはいえ、ホメロスの描く西風は、おとなしいだけの風ではない。『イリアス』では、西風に追い立てられた波が岸に打ち寄せて砕け、しぶきを吐き散らす。『オデュッセイア』では、南風とならんで、神々の意に反してまで船を沈める風として恐れられている。
その一方で、西風は楽園の風でもあった。大地の果てのエリュシオンの野には雪も嵐も雨もなく、大洋からいつも西風がそよいで、人々を涼ませる。海の民の王の果樹園では、西風が吹くたびに、ある実は芽吹き、ある実は熟していく。風の神の島の王がオデュッセウスを故郷へ送り出すとき、荒い風を全部袋に閉じこめ、外にひとつだけ残したのも西風だった。
ゼピュロスには子どももいた。アキレウスの戦車を引いた二頭の神馬は、風のように速い馬だった。この馬たちは、大洋の流れのほとりの牧場で草を食んでいた怪鳥ハルピュイアの一羽が、西風とのあいだに産んだものだという。
同じ『イリアス』には、風の神々の宴会の場面もある。親友パトロクロスの亡骸を焼こうとしても、薪に火がつかない。アキレウスは北風と西風に供物を約束して祈った。使いの女神イリスが知らせに行くと、風たちは西風の館で、そろって宴会の最中だった。話を聞くや、風たちはすさまじい音を立てて雲を追い立て、海を越えてトロイアへ吹きつける。薪は一晩じゅう燃えさかった。
後の時代になると、西風には恋の話がいくつも加わる。2世紀の作家ルキアノスによれば、アポロンに愛された美少年ヒュアキントスに、西風も思いを寄せていた。アポロンが円盤を投げたとき、嫉妬した西風が山から吹き下ろして円盤の向きを変え、少年の頭にぶつけて命を奪ったという。旅行家パウサニアスも、西風のこと、アポロンが思いがけず少年を死なせたこと、花のことを、言い伝えとして書き留めている。
ローマの詩人オウィディウスの『祭暦』では、花の女神フローラが自分の身の上を語る。私はもとはクロリスという名のニンフだった。春の日に歩いていると、ゼピュロスに見つかった。逃げたが、相手のほうが強かった。兄の北風も、アテネの王女を奪い去っていたのだから。それでもゼピュロスは私を正式な妻として償い、私の庭を花で満たして、女神よ、花をつかさどれ、と言った。ボッティチェリの『春』に描かれたのは、クロリスがフローラに変わる、この場面である。
2世紀のアプレイウスの物語では、ゼピュロスは愛の神クピド(エロス)の召し使いとして働く。山の岩の上に置き去りにされて泣いていた娘プシュケを、西風はそっと持ち上げ、花の咲く谷の草の上へ降ろした。そこにはクピドの宮殿があった。のちにプシュケの姉たちも、西風に運ばれて宮殿を訪ねてくる。だが妹を妬んだ姉のひとりは、西風が受け止めてくれるものと思い込んで同じ岩から身を投げ、岩に打ちつけられて死んだ。
そして『ホメロス風讃歌』の一篇は、西風の湿った息吹が、生まれたばかりのアプロディテを柔らかな泡に包んで、波の上をキュプロス島まで運んだ、と語る。浜で女神を出迎えたのは、季節の女神たちだった。ボッティチェリの絵の右端で、花模様の衣を差し出している女性は、美の女神の一人とも、春の季節の女神ともいわれている。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、オウィディウス『祭暦』、パウサニアス『ギリシア案内記』、ルキアノス『対話篇(神々の対話・海神たちの対話)』、アプレイウス『変身物語(黄金のろば)』、ウフィツィ美術館『ウフィツィ美術館 公式サイト(作品解説)』
ルキアノスの『神々の対話』では、アポロンがヘルメスに、ヒュアキントスの死は、少年に恋していた西風の嫉妬のせいだと打ち明ける。西風がタユゲトス山から吹き下ろして円盤を少年の頭に当てた。パウサニアスも、アミュクライの祭壇の話のあとで「西風のこと、アポロンが意図せずヒュアキントスを殺したこと、花の話」を、事実ではないかもしれない伝承として挙げる。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀、ルキアノス『対話篇(神々の対話・海神たちの対話)』 2世紀後半
オウィディウス『変身物語』のヒュアキントスの話には西風は出てこず、円盤が地面で跳ね返って少年に当たる事故として語られる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
オウィディウス『祭暦』では、花の女神フローラが、もとはギリシャのニンフ、クロリスだったと語る。春に歩いていたところをゼピュロスに見つかって追われ、力ずくで奪われた(兄ボレアスもエレクテウスの家から花嫁を奪っていた)。ゼピュロスは彼女を妻として償い、彼女の庭を花で満たして、花をつかさどる女神にした。ラテン語のフローラは、ギリシャ語の名クロリスの音が崩れたもの、とフローラ自身が言う。
オウィディウス『祭暦』 8年頃(未完)
アプレイウスの「クピドとプシュケ」では、ゼピュロスはクピドの召し使い。岩山の頂に置かれて泣くプシュケをそっと持ち上げ、花の咲く谷の草の上に降ろす。クピドの命で姉たちも運ぶが、姉の一人は「ゼピュロスよ、女主人を受け止めよ」と叫んで岩から飛び降り、岩に打たれて死んだ。
アプレイウス『変身物語(黄金のろば)』 2世紀後半
ウフィツィ美術館は、ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』の左の風をゼピュロス(と、おそらくアウラ)とし、『春』(1480年ごろ)の右端を、ゼピュロスがニンフのクロリスを抱き、クロリスが春の女神フローラに変わる場面と説明している。
ウフィツィ美術館『ウフィツィ美術館 公式サイト(作品解説)』 2026年9月閲覧
ヘシオドスでは、エオス(曙)がアストライオスとのあいだに産んだ風の一柱で、「晴れやかな」ゼピュロス、ボレアス、ノトスが兄弟。この三つの風は神々から出た種族で人間への大きな恵みであり、それ以外の湿った荒い風はテュポエウスから生まれるとされる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ホメロスの西風は荒い風としても描かれる。『イリアス』では西風に追われた波が岸で砕ける比喩に、『オデュッセイア』では南風と並び、神々の意に反してでも最も多く船を砕く風として出てくる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
一方で穏やかな恵みの風でもある。エリュシオンの野では雪も嵐も雨もなく、オケアノスが西風を送って人を涼ませる。アルキノオスの果樹園では西風が絶えず吹いて、ある実を芽吹かせ、ある実を熟させる。アイオロスがオデュッセウスを送り出すとき、袋に閉じこめずに残したのも西風だった。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
アキレウスの神馬クサントスとバリオスは、オケアノスの流れのほとりの牧場で草を食んでいたハルピュイアのポダルゲが、西風とのあいだに産んだ馬。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
パトロクロスの火葬の薪が燃えないため、アキレウスは北風と西風に供物を約束して祈る。イリスが伝えに行くと、風たちは西風の館で宴会中だった。風たちは雲を追い立てて海を渡り、一晩じゅう薪を燃やし続けた。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『ホメロス風讃歌』6番では、湿った西風の力が、アプロディテを柔らかな泡に包んで、とどろく海の波の上をキュプロスへ運ぶ。ホーライ(季節の女神)が迎えて衣を着せる。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
フローラ(植物相 flora)ある地域や時代に生えている植物の全体(植物相)を、フローラという。もとはローマ神話の、花と豊穣と春の女神の名。英語では1500年ごろから女神の名として、1777年から「ある地域や時代の植物」の意味で使われている。植物を一覧にした本の題としては1640年代から使われ、1745年にリンネが『スウェーデン植物誌』(Flora Suecica)の題にしたことで広まった。オウィディウスの『祭暦』によれば、この女神はもとはギリシャのニンフ、クロリスで、西風の神ゼピュロスにさらわれてその妻となり、夫から花をつかさどる役目を与えられたという。
ゼファー / zephyr(そよ風)英語の zephyr(ゼファー)は「そよ風」のこと。もとは古代ギリシャの西風の神ゼピュロスの名で、語源辞典は、古典の世界で西風を人の姿にした神であり、森の神々の中でもいちばん穏やかでやさしい存在だと説明している。16世紀に英語の形になり、1610年代には、どんな柔らかな風にも使われるようになった。名前はギリシャ語で「西」「日の沈む暗い方角」を指す言葉と関係があるかもしれないという。