アルカディアの伝承では、ポセイドンに追われて牝馬に姿を変えたが、牡馬となった彼に捕らえられ、名馬アレイオンと「名を明かせぬ女神」デスポイナを産んだとされる。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀

Δημήτηρ神
ヴェールをかぶって座る、クニドスのデメテル。 『クニドスのデメテル』 作者不詳 前350年ごろ(ヘレニズム期。コモンズの説明による) 写真 Raymond.ellis(2011年)CC0
朝食のシリアルは、英語で cereal と書く。この言葉は、ローマの穀物の女神ケレスの名から来ている。ギリシャでケレスにあたるのが、麦と実りの女神デメテルである。
物語は、野に咲いた一輪の花から始まる。
百の花をつけた、見たこともない水仙だった。
野原で花を摘んでいた少女ペルセポネは、その花に両手を伸ばした。そのとき大地が裂け、黄金の戦車に乗った冥界の王ハデスが躍り出て、泣き叫ぶ少女をさらっていった。水仙は、ハデスのために大地が咲かせた罠だった。仕組んだのは少女の父ゼウスである。母デメテルには、何ひとつ知らされていなかった。

デメテルは、ゼウスの姉にあたる。娘の悲鳴は山の頂と海の底に響き、母の耳にも届いた。デメテルは髪の覆いを引き裂き、黒い衣をまとって、鳥のように陸と海を駆けめぐった。9日のあいだ、両手に松明を掲げてさまよい、神々の食べ物も口にせず、体を洗うこともしなかった。
10日目の朝、松明を手にした冥界の女神が、悲鳴を聞いたと告げに来る。二人は、天から地上のすべてを見ている太陽神ヘリオスのもとへ向かった。ヘリオスは真相を明かした。ほかの誰でもない、ゼウスが娘をハデスに与えたのだ、と。ハデスはあなたの弟で、世界の三分の一を治める王なのだから、婿として不足はない。そう言い添えもした。
デメテルの悲しみは、怒りに変わった。神々の集まりにもオリュンポスにも寄りつかず、老婆に姿を変えて人間の町をさまよう。たどり着いたのは、エレウシスの町だった。井戸のそばに座っていると、水汲みに来た王の4人の娘が声をかけ、母の王妃が遅くに授かった男の子の乳母として館に迎え入れた。
館に入ったデメテルは、口もきかず、笑いもしなかった。侍女のひとりが冗談を重ね、ようやく女神の口もとに笑みが戻る。
デメテルは幼い王子を、人間の食べ物で育てなかった。昼は神々の食べ物アンブロシアを塗って息を吹きかけ、夜は薪のように火の中に埋めた。子は神のように育っていく。女神はこの子を、不死で老いない者にするつもりだった。ところがある夜、王妃がこっそり覗き見て悲鳴を上げる。デメテルは子を火から引き出して床に放り、愚かな人間たちよ、と言い放った。これでこの子は死を逃れられなくなった。そして本当の姿を現す。背が伸び、老いが消え、金の髪が肩に広がって、館は稲妻に打たれたように光で満ちた。女神は、自分のための神殿を建てよと命じて去った。
神殿が建つと、デメテルはそこにこもった。そして人類にとって最も恐ろしい1年が来る。大地は種を芽吹かせなかった。牛がいくら鋤を引いても、麦をいくらまいても、何も生えない。このままでは人間は飢えて滅び、神々への供え物も絶える。
ゼウスは虹の女神を使いに送った。デメテルは動かない。神々が次々に贈り物を携えて説得に来ても、娘をこの目で見るまでは、オリュンポスに戻らず、実りも返さないと言い張った。ついにゼウスは、ヘルメスを冥界へ送り、ペルセポネを連れ戻させる。

ハデスは王の命令に従った。ただ、娘が発つ前に、甘いザクロの実をこっそり食べさせた。
エレウシスの神殿の前で、母と娘は抱き合った。その腕の中で、デメテルは急に不安になって尋ねる。下で何か食べなかったか。もし食べたのなら、あなたは毎年、季節の三分の一を地の底で過ごさなければならない。娘は答えた。ザクロの種を口に入れられ、無理に食べさせられました。

こうして取り決めができた。ペルセポネは1年の三分の一を冥界で、残りを母と神々のもとで過ごす。春の花が咲くころ、娘は地の底から上がってくる。デメテルは怒りを収め、大地は一面に葉と花をつけた。
去る前に、女神はエレウシスの王たちに自分の祭儀を教えた。それが「エレウシスの秘儀」である。口外は許されない。讃歌が伝えるのは、これを見た者は幸いで、見なかった者は死んだあと同じ幸いにあずかれない、という一言だけだ。
この物語を丸ごと語るのは、ホメロス風讃歌と呼ばれる古い讃歌集の『デメテル讃歌』である。ところが『イリアス』や『オデュッセイア』に、デメテルはほとんど姿を見せない。『イリアス』では、脱穀場で麦ともみ殻を風に選り分ける金髪の女神として、比喩の中に出てくる程度だ。
ただ『オデュッセイア』に一つだけ、短い逸話が残る。女神カリュプソが、神々は女神が人間の男を愛するのを許さない、と嘆く場面で、デメテルの例を挙げるのだ。デメテルは人間の若者に心を許し、三度鋤き返した畑で結ばれた。それを知ったゼウスは、雷でその若者を撃ち殺した。
ギリシャ南部のアルカディア地方には、さらに別の話が伝わっていた。娘を探していたデメテルに、弟の海神ポセイドンが言い寄った。デメテルは牝馬に姿を変えて馬の群れに紛れたが、ポセイドンも牡馬になって見破り、女神は名馬と、名を明かしてはならない娘を産んだという。旅行家パウサニアスが、この地で聞いた話として書き留めている。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、パウサニアス『ギリシア案内記』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
アルカディアの伝承では、ポセイドンに追われて牝馬に姿を変えたが、牡馬となった彼に捕らえられ、名馬アレイオンと「名を明かせぬ女神」デスポイナを産んだとされる。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀
ローマの対応神ケレスの名は英語 cereal(穀物・シリアル)の語源。ラテン語 Cerealis「ケレスの」から。語源の節も参照。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
ホメロスの叙事詩でのデメテルは、麦を風で選り分ける比喩や「デメテルの穀物」といった表現に現れる程度で、娘の誘拐の物語は語られない。デメテル神話の中心はホメロスの外にある。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ペルセポネが野で水仙を摘もうとしたとき大地が裂け、ハデスが黄金の車で攫った。仕掛けたのはゼウスとガイアで、デメテルには知らされていない。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
娘を返さないゼウスへの抗議として大地に種を実らせず、「人類が飢えて滅び、神々が供物を失う」ところまで追い込んだ。神を動かしたのは力ではなく、供犠の途絶という脅し。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
エレウシスで乳母となり、王子デモポオンを夜ごと火に浸して不死の者にしようとしたが、母に見られて中断した。人間が不死になり損ねた話として語られる。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
和解の後、エレウシスの王たちに秘儀を教えた。讃歌は「見た者は幸いであり、見ない者は死後に同じ運びを得ない」と述べ、内容そのものは明かさない。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
カリュプソが「女神が人間の男を愛すると神々は許さない」と抗議する際、デメテルがイアシオンと三度耕した畑で交わり、ゼウスに雷で撃たれたことを挙げる。ホメロスに残る数少ないデメテルの逸話。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
娘の悲鳴を聞いたデメテルは、9日間松明を持って地上をさまよい、飲み食いも沐浴もしなかった。10日目にヘカテが来て、二人でヘリオスのもとへ行く。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
エレウシスの王ケレオスの館で、悲しみから口をきかず笑わなかったデメテルを、侍女イアンベが冗談で笑わせた。デメテルは赤い葡萄酒を断り、大麦と水とミントの飲み物を求めた。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
ハデスはペルセポネを帰す前にザクロの種をこっそり食べさせた。そのため娘は毎年季節の三分の一を冥界で、三分の二を母と神々のもとで過ごす。讃歌は「三分の一」とする。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
カリマコス『讃歌』6.24-117 / Met. 8.738-878
3.14.7
エンニウスの詩句(アプレイウス『ソクラテスの神霊について』2)とリウィウス22.10.9 のローマの十二柱。ギリシャの神に対応させた
讃歌270-274 神殿、473-482 秘儀
シリアル / cereal穀物・穀物加工食品を指す語。ローマの穀物の女神ケレス(デメテルと同一視)に由来するラテン語 Cerealis「ケレスの」から。英語では形容詞が1818年、名詞が1832年、朝食用の加工食品の意は1899年のアメリカ英語から。
セリウム / cerium元素セリウム(記号 Ce)の名は、2段階を経て女神にたどり着く。1801年に最初の小惑星が見つかり、ローマの農業の女神ケレスの名が付いた。ケレスはギリシャのデメテルと同じ女神とされる。その2年後の1803年、ベルセリウスらが新しい物質を見つけ、当時の大発見だったこの小惑星にちなんでセリアと呼んだ。そこから取り出された金属がセリウムで、純粋な形で取り出されたのは1875年。
ミステリー(mystery)英語の mystery は、ギリシャ語の mystērion から来ている。語源辞典によれば、もとは「入信した者だけが知り、行う秘密の儀式や教え」のことで、「入信した者」を指す mystēs、さらに「閉じる」という意味の myein にさかのぼる。閉じるのは、秘密を守る唇とも、入信者しか神聖な儀式を見てはならない目とも考えられている。英語では14世紀前半から使われ、推理小説の意味は1908年から記録がある。古代ギリシャの秘儀の一つに、エレウシスの秘儀がある。『デメテル讃歌』によれば、娘を取り戻した穀物の女神デメテルが、エレウシスの王たちに自分の祭儀を教えた。それは口外が許されないもので、その儀式を見た者は幸いだと讃歌は語っている。