パウサニアスによれば、アテナイのアゴラには少年プルトスを抱くエイレネ(平和)の像があった。テーバイのテュケ(運命)の聖域には、幼いプルトスを抱くテュケの像があり、パウサニアスは、富を運命の腕に置いて母か乳母のように見せたのはうまい考えで、平和の女神に富を抱かせたケピソドトスのアテナイの像も同じく巧みだと書く。テスピアイでは、働くアテナの像のそばにプルトスの像が立っていた。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀

Πλοῦτος神
幼いプルトス(富)を腕に抱く平和の女神エイレネ。アテナイのアゴラにあったケピソドトスの奉納像のローマ時代の模刻。 『幼いプルトス(富)を抱くエイレネ(平和)』 作者不詳(ケピソドトスの原作によるローマ時代の模刻) 原作は前370年ごろ ミュンヘン古代彫刻美術館(グリュプトテーク)Public domain
英語の plutocracy は「金権政治」、金持ちが支配する政治のことだ。語源の辞書によれば、17世紀半ばから使われていて、頭の部分はギリシャ語で「富」を意味する言葉から来ている。その「富」を、そのまま神にしたのがプルトスである。
富の神とは、どんな神だったのか。ギリシャの人々が語ったプルトスの姿を、生まれから見ていこう。
ヘシオドスの『神統記』によれば、プルトスは、実りの女神デメテルの子だった。デメテルはクレタ島の豊かな土地で、三度鋤き返した畑の中、英雄イアシオンと愛をかわして、この子を産んだ。プルトスは陸の上も広い海の上も、どこへでも出かけていく。そして、彼に出会い、その手に彼が落ちた人を、たちまち金持ちにする。
『ホメロス風讃歌』のひとつ、デメテルをたたえる詩の結びにも、プルトスは顔を出す。娘を取り戻したデメテルとペルセポネは、オリュンポスの神々のもとへ帰っていく。この二柱の女神が心から愛した人は幸せだ。女神たちはすぐに、その人の大きな家の炉ばたへプルトスを送ってよこす。人間に豊かさを授けるプルトスを。
畑の実りから生まれた、気前のよい富の神。ところが紀元前4世紀のアテナイでは、この神はまるで違う姿で舞台に上がった。喜劇作家アリストパネスの『プルトス』である。
貧しいけれど正直な男が、息子を悪党に育てたほうが得なのかを、アポロンの神託に尋ねる。答えは、神殿を出て最初に出会った者についていけ、というものだった。出会ったのは、ぼろをまとった盲目の老人。問い詰めると、老人はしぶしぶ白状した。自分こそ富の神プルトスだ。若いころ、正しい人、賢い人、身を慎む人のところにだけ行くとゼウスを脅したら、ゼウスは人間をねたんで、誰が善人か見分けられないように、自分の目をつぶしてしまったのだ、と。
男はプルトスを、医術の神アスクレピオスの神殿へ連れていき、一夜を明かさせる。夜ふけに神が現れ、プルトスの頭に触れ、まぶたをぬぐった。神殿から二匹の大蛇が這い出してきて、まぶたをなめる。すると、プルトスは目が見えるようになって立ち上がっていた。目の開いた富の神は、正しい人たちを金持ちにし、悪人たちを貧しくする。捧げものが届かなくなった神々の使者ヘルメスまでが、男の家に雇ってくれと頼みに来る始末だった。劇の終わりに、プルトスは、アクロポリスのアテナの神殿の奥の宝物庫へ、かつてのように宝を守る者として迎えられていく。
アテナイの人々は、この神を像にもした。旅行家パウサニアスは、町の広場に、幼いプルトスを抱いた平和の女神の像があったと書いている。テーバイでは、運命の女神が幼いプルトスを抱く像を見て、女神を母とも乳母とも見せる、うまい思いつきだとほめた。平和と幸運が、富を腕に抱いて育てる、という図である。
名前がよく似ているため、冥界の王ハデスの別名プルトンと混同されやすい。哲学者プラトンの『クラテュロス』には、ハデスがプルトンと呼ばれるのは、富が地の下から湧いて出るからだ、という説明がある。土の中から実りが生まれるように、富もまた地の底から来る。畑の女神の子プルトスと、地の底の王プルトンは、別の神でありながら、同じ「富」という言葉でつながっている。
この物語の出典: ヘシオドス『神統記』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、アリストパネス『プルトス(富)』、プラトン『クラテュロス』、パウサニアス『ギリシア案内記』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
パウサニアスによれば、アテナイのアゴラには少年プルトスを抱くエイレネ(平和)の像があった。テーバイのテュケ(運命)の聖域には、幼いプルトスを抱くテュケの像があり、パウサニアスは、富を運命の腕に置いて母か乳母のように見せたのはうまい考えで、平和の女神に富を抱かせたケピソドトスのアテナイの像も同じく巧みだと書く。テスピアイでは、働くアテナの像のそばにプルトスの像が立っていた。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀
英語 plutocracy(富裕層による支配、金権政治)は1650年代から使われ、ギリシャ語 ploutokratia(富の、または富める者の支配)から。ploutos は「富」。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
ヘシオドス『神統記』では、デメテルがクレタの豊かな土地の三度鋤いた休閑地で英雄イアシオンと交わり、プルトスを産む。プルトスは陸と海の広い背をくまなく行き、彼に出会い、その手に彼が渡った者を豊かにし、大きな富を授ける。ホメロスの『オデュッセイア』もデメテルとイアシオンの恋に触れるが、プルトスの名は出さない。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃、ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『ホメロス風讃歌』の「デメテル讃歌」の結びでは、デメテルとペルセポネがオリュンポスへ帰ったあと、二柱が心から愛した地上の人は大いに幸せで、女神たちはすぐにその人の大きな家の炉ばたの客としてプルトスを送る、と語られる。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
アリストパネスの喜劇『プルトス』(前388年上演)では、貧しく正直なクレミュロスが、神託に従って神殿を出て最初に出会った盲目の老人についていくと、それがプルトスだった。プルトスは、若いころに正しく賢く身を慎む人のところにだけ行くとゼウスを脅したところ、人間をねたんだゼウスに、見分けがつかないよう目を見えなくされたと語る。
アリストパネス『プルトス(富)』 前388年上演
同じ劇で、プルトスは海で身を清めたあとアスクレピオスの神殿で夜を過ごす。現れた神がプルトスの頭に触れ、まぶたを布でぬぐうと、パナケイアが頭を赤い布で覆い、神殿から這い出た二匹の大蛇がまぶたをなめた。プルトスは目が見えるようになって立ち上がる。以後、正しい者が豊かになり、捧げものの絶えたヘルメスは寝返りを申し出て、最後にプルトスはアテナの神殿の奥の宝物庫(オピストドモス)に、以前のように番人として据えられる。
アリストパネス『プルトス(富)』 前388年上演
富の神プルトス(Ploutos)と、冥界の王ハデスの別名プルトン(Plouton、ラテン語 Pluto)は別の神だが、どちらも「富」の語と結びつく。プラトン『クラテュロス』のソクラテスは、プルトンという名は、富が地の下から湧いて出ることから「富を与える者」として付いたと説明し、人々はハデス(見えない者)の名を恐れてプルトンと呼ぶのだろう、とする。
プラトン『クラテュロス』 前4世紀前半
プルトクラシー(金権政治) / plutocracyお金を持つ者が政治を動かすことを、英語で plutocracy、日本語で金権政治という。平凡社の世界大百科事典によれば、もとは古代ギリシャで「富める者による支配」を指し、賢い者の支配や戦士の支配、貧しい大衆の支配と並べて論じられた政治の形の一つだった。語源辞典によれば、ギリシャ語の「富」ploutos に「支配」を表す -kratia を付けた言葉で、英語では1650年代から使われている。この ploutos は、富の神プルトスの名そのものである。つまり金権政治は、神の名から作られたというより、神と同じ「富」という言葉から作られた言葉である。冥界の王ハデスの別名プルトン(ローマではプルート)も、地下から金属や宝石という富が出ることから、同じ ploutos から来ている。