『イリアス』でアスクレピオスは神としては登場せず、テッサリアの軍を率いる二人の優れた医者、マカオンとポダレイリオスの父として名が出る。マカオンは「非の打ちどころのない医者アスクレピオスの息子」と呼ばれ、ケイロンがその父に薬の知識を授けた、とも語られる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

Ἀσκληπιός神
蛇の巻きついた杖のそばに立つアスクレピオス。 『エピダウロスのアスクレピオス』 作者不詳 160年ごろのローマの写し(元は前4世紀のギリシャの像。コモンズの説明による) アテネ国立考古学博物館。写真 Gary Todd(2016年)CC0
世界保健機関(WHO)の紋章には、一匹の蛇が巻きついた杖が描かれている。医療の印としておなじみのこの杖は、ギリシャの医術の神アスクレピオスのものだ。
その医術の神は、燃えさかる火葬の炎の中から取り出された赤ん坊だった。
詩人ピンダロスは、その生まれをこう書いている。光の神アポロンは、ある王の娘を愛し、娘は神の子を身ごもった。ところが娘は、婚礼の宴も待たずに、父に隠れてよその土地から来た男と床をともにした。何もかも見通すアポロンに、隠しごとは通じない。アポロンは妹の狩りの女神アルテミスを遣わし、娘を矢で射殺させた。
身内が娘の亡骸を薪の上に置き、火が燃え上がったとき、アポロンは言った。自分の子まで、母と一緒にこんなむごい死に方をさせるのは耐えられない。そして一歩で炎に踏み込み、母の亡骸から赤ん坊を奪い取った。燃える薪が、神の前で左右に分かれたという。

アポロドーロスは、もう一つ小さな話を付け加える。娘の裏切りをアポロンに知らせたのは一羽のカラスだった。アポロンはカラスを呪い、白かった羽を黒くした。
赤ん坊は、半人半馬のケンタウロスの賢者ケイロンに預けられた。ケイロンは狩りと医術を教えた。やがてアスクレピオスは、人々を悩ませるあらゆる病を治すようになる。ピンダロスによれば、自然にできた腫れもの、青銅や石で負った傷、夏の熱や冬の寒さに焼かれた体を、ある者はやさしい呪文で、ある者は薬を飲ませて、ある者は手足に薬を巻きつけて、ある者は切開して、立ち上がらせた。
それだけでは終わらなかった。アポロドーロスによれば、アスクレピオスは女神アテナから、蛇髪の怪物メドゥサの血管から流れた血をもらっていた。左の血管の血は人を滅ぼし、右の血管の血は人を救う。その右の血で、彼は死者を生き返らせた。アポロドーロスは、よみがえった者の名を何人も書き留めている。
これがゼウスの怒りを買った。ピンダロスは、アスクレピオスが黄金の報酬に心を動かされ、すでに死に捕らえられた男を連れ戻したのだと言う。アポロドーロスは、人間が医術を身につけて互いに救い合うようになることをゼウスが恐れたのだと言う。理由はどうあれ、ゼウスは雷を投げつけ、アスクレピオスも生き返った男も、一瞬で息の根を止められた。
息子を殺されたアポロンは黙っていなかった。ゼウスの雷を鍛えていた一つ目の巨人キュクロプスたちを殺したのである。ゼウスは彼を地の底へ投げ込もうとしたが、母の女神レトのとりなしで罰は軽くなり、アポロンは1年のあいだ、ある人間の王のもとで牛飼いとして働かされた。
ところが、『イリアス』の中のアスクレピオスは神ではない。『イリアス』に出てくるのは、トロイア戦争に従軍した二人の優れた軍医の父親、「非の打ちどころのない医者」としてだけだ。息子の一人が矢傷を手当てするとき、ケイロンが昔、父に教えた薬を傷に振りかけている。
それが時を経て、医術の神として祀られるようになる。ローマの詩人オウィディウスは、疫病に苦しむローマが、ギリシャの聖地から神を迎えた話を語る。神は夢の中に杖を手にして現れ、この杖に巻きつく蛇をよく見ておけ、と告げた。やがて神は大蛇の姿でローマの船に乗り込み、テヴェレ川の中州に上がって、疫病を鎮めた。

夢に現れたあの杖が、いまWHOの紋章の中にある。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ピンダロス『祝勝歌集』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、世界保健機関『WHOのロゴとエンブレム』
『イリアス』でアスクレピオスは神としては登場せず、テッサリアの軍を率いる二人の優れた医者、マカオンとポダレイリオスの父として名が出る。マカオンは「非の打ちどころのない医者アスクレピオスの息子」と呼ばれ、ケイロンがその父に薬の知識を授けた、とも語られる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『ホメロス風讃歌』の短い「アスクレピオス讃歌」は、彼を病を癒やすアポロンの子とし、ドティオンの野でプレギュアス王の娘コロニスが産んだとする。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
アポロドロスは、母をレウキッポスの娘アルシノエとする説を先に挙げ、テッサリアのプレギュアスの娘コロニスの子とする説も「ある人々は」として併記する。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アスクレピオスはついに死者を生き返らせたため、ゼウスに雷で打たれる。ピンダロスは「黄金の報酬に心を動かされて」死にかけた男を連れ戻したからだとし、アポロドロスは、人間が医術を身につけて互いに救い合うことをゼウスが恐れたからだとする。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アポロドロスでは、アスクレピオスはアテナからゴルゴン(メドゥサ)の血を授かっていた。左の血管から流れた血は人を滅ぼすのに、右の血管の血は人を救うのに使い、それで死者を生き返らせた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスは、疫病に苦しむローマがエピダウロスからアスクレピオス(アエスクラピウス)を迎えた話を語る。神は夢の中で「杖に巻きつくこの蛇をよく見ておけ」と告げ、大蛇の姿でローマの船に乗り込み、テヴェレ川の中州に上陸して疫病を鎮めた。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
ゼウスがアスクレピオスを雷で殺すと、アポロンは雷を作ったキュクロプスたちを殺した。ゼウスはアポロンをタルタロスに投げ込もうとしたが、レトのとりなしで、1年間人間(アドメトス)に仕える罰に変えた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ピンダロスでは、アポロンの子を身ごもったコロニスがアルカディアから来た男イスキュスと通じ、アポロンは妹アルテミスを遣わして彼女を射殺させる。火葬の薪が燃え上がったとき、アポロンは「我が子まで死なせるのは耐えられない」と炎の中から赤子を取り出し、ケンタウロスのケイロンに預けて医術を学ばせた。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半
「ヒポクラテスの誓い」は医師が「医神アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイア」に誓う形で始まる。WHOは1948年の第1回世界保健総会でエンブレムを選び、蛇の巻きついた杖はアスクレピオスの物語に由来する医療の象徴だと説明している。
ヒポクラテス派(作者不詳)『ヒポクラテスの誓い』 前5〜4世紀頃、世界保健機関『WHOのロゴとエンブレム』 2026年9月閲覧
アポロドーロスでは、コロニスの不実を知らせたカラスをアポロンが呪い、白かった羽を黒くした。ピンダロスでは知らせの鳥は出ず、アポロンが万事を見通す心で知ったとされる。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ピンダロスは、自然にできた腫れもの、青銅や石の傷、暑さ寒さに冒された体を、呪文・薬の服用・手足に巻く薬・切開で治したと歌う。
ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半
パウサニアス2.27.2、『変身物語』15.655-660、ヒュギヌス『天文譜』2.14.7
173「アポロンの子アエスクラピウス」。ヒュギヌスの名簿にだけ出てくる
653-747 アスクレピオスの神殿で目を治される(喜劇の設定)
へびつかい座 / Ophiuchusへびつかい座は、蛇を両手で抱える男の姿の星座で、その男は医術の神アスクレピオスだとする星の学者が多かった。ローマ時代のヒュギヌスの『天文譜』によれば、アスクレピオスは人間の中で並ぶ者のない名医だったが、痛みを和らげるだけでは満足できず、ついには死んだ人まで生き返らせた。継母の企みと父の思い違いで命を落とした若者を治したのが、その最後だったという。ゼウスはこれを罪として雷で彼の家を焼いたが、その技と父アポロンに免じて、蛇を持つ姿で星のあいだに置いた。なぜ蛇を持っているのかについて、同じ本はこんな話も伝える。クレタ王ミノスの死んだ息子を治すよう命じられ、杖を手に考え込んでいると、蛇が杖に這い寄ってきた。杖で打ち殺すと、もう一匹の蛇が薬草をくわえて現れ、死んだ蛇の頭にのせた。すると二匹とも逃げていった。その草で、彼は少年を生き返らせた。こうして蛇はアスクレピオスに守られる生き物として星にもなり、医者が蛇を使う習わしもそこから始まったという。ただし、この星座をヘラクレスなど別の人物とする説も並べられている。英語の Ophiuchus はギリシャ語で「蛇を持つ者」の意味で、1650年代から。語源辞典によれば、この星座は今の境界では黄道の帯に入り込んでいて、太陽は11月30日ごろから12月18日ごろまでここを通る。
パナシア / panacea(万能薬)英語の panacea(パナシア)は「どんな病も治す薬」、つまり万能薬のこと。1540年代から英語に見え、ギリシャ語の「すべてを癒やすもの」がもとになっている。同じ言葉は、医神アスクレピオスの娘の名前でもあった。古代の讃歌の碑文は、健康の女神ヒュギエイアと並んでパナケイアをアスクレピオスの子に数え、「ヒポクラテスの誓い」では、医師がアポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイアの名にかけて誓う。
アスクレピオスの杖 / WHOの紋章蛇が一匹巻きついた杖は、医神アスクレピオスにちなむ医療の象徴である。WHOは1948年の第1回世界保健総会でエンブレムを定め、国連の紋章の上に蛇の巻きついた杖を置いた。WHOはこの杖と蛇を「古代ギリシャで癒やしの神と崇められたアスクレピオスの物語に由来する」と説明している。オウィディウスは、アスクレピオスが夢の中で「杖に巻きつくこの蛇」を見せ、その蛇の姿でローマに渡ったと語る。