『キュプリア』の断片では、髪の美しいネメシスがゼウスに無理に交わらされてヘレネを産んだと歌われる。ネメシスは「父」であるクロノスの子ゼウスと交わるのを恥じて、陸を、海を、オケアノスの流れを越えて逃げ、魚やさまざまな獣に姿を変えたが、ゼウスは追い続けた。
作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』 前7世紀頃

Νέμεσις神
剣を手に、罪を犯した者を追う女神ネメシス。レーテルの絵。 『ネメシス』 アルフレート・レーテル 1837年Public domain
英語の「ネメシス」は、どうしても勝てない宿敵のことを指す。この言葉はもともと、16世紀に「天罰」「因果応報」の意味で英語に入った。さらにさかのぼると、行き過ぎた幸運や思い上がりに報いを与える、ギリシャの女神の名前にたどり着く。
罰を下す側の女神は、どんな話の中にいたのか。
『神統記』によると、ネメシスは夜の女神の娘だ。「死すべき人間を苦しめるために」生まれた、と書かれている。同じ母からは、欺き、愛欲、老い、そして争いの女神エリスも生まれた。
『イリアス』や『オデュッセイア』では、ネメシスはまだ女神として姿を見せない。恥ずべき行いに対して周りの人々が抱く「憤り」を表す、ふつうの言葉として使われている。『仕事と日』でも、その感覚は残っている。人の世がすっかり堕落する鉄の時代の終わりには、恥じらいと憤りが白い衣をまとって地上を去り、神々のもとへ行ってしまう。人間には、苦しみだけが残る、と。
女神ネメシスの最も驚くべき話は、失われた叙事詩『キュプリア』の断片に残っている。ゼウスが彼女を追いかけた。ネメシスは恥じて逃げ、陸を越え、海を越え、世界の果ての大河を越えていく。魚に、獣にと次々に姿を変えても、ゼウスは追い続け、ついに無理やり交わった。生まれたのが、のちにトロイア戦争の原因となる絶世の美女ヘレネだった。
ヘレネの母といえば、ふつうは白鳥に化けたゼウスと交わったスパルタの王妃レダの名が挙がる。後の神話集は、二つの話を卵でつないでいる。ネメシスが鵞鳥に化けて逃げ、ゼウスが白鳥になって交わった。ネメシスが産んだ卵を羊飼いが見つけてレダに渡し、レダが、かえったヘレネをわが子として育てた、というのである。
アテナイの北東にある町には、ネメシスの聖域があった。2世紀の旅行家パウサニアスが、女神像の由来を書き残している。マラトンに上陸したペルシャ軍は、勝つつもりで、戦勝記念碑にするための大理石まで運んできていた。ところが戦いに敗れる。その石から、名高い彫刻家フェイディアスが刻んだのがネメシスの像だった。思い上がった者に罰を下す女神に、これほどふさわしい材料はない。パウサニアスはさらに、古いネメシス像にはどれも翼がないとも書いている。

ローマの詩人オウィディウスの語る美少年ナルキッソスの話にも、この女神が顔を出す。多くの者の想いを冷たくはねつけてきた少年に、ある者が祈った。彼もまた恋をして、恋したものを手に入れられませんように。その祈りを女神が聞き入れ、少年は水に映った自分の姿に恋をしてしまう。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、ヘシオドス『仕事と日』、作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、パウサニアス『ギリシア案内記』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
『キュプリア』の断片では、髪の美しいネメシスがゼウスに無理に交わらされてヘレネを産んだと歌われる。ネメシスは「父」であるクロノスの子ゼウスと交わるのを恥じて、陸を、海を、オケアノスの流れを越えて逃げ、魚やさまざまな獣に姿を変えたが、ゼウスは追い続けた。
作者不詳(スタシノスに帰される)『キュプリア』 前7世紀頃
アポロドロスは「ある人々は」として、ネメシスが鵞鳥に化けて逃げ、ゼウスが白鳥になって交わり、生まれた卵を羊飼いが見つけてレダに渡し、レダが孵ったヘレネを自分の子として育てた、という形を伝える。レダと白鳥の話と、ネメシスの話が卵を介してつながっている。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アッティカのラムヌスにはネメシスの聖域があった。パウサニアスによれば、マラトンに上陸したペルシャ軍は勝利を確信して戦勝記念碑にするためのパロス産大理石を運んできており、その石からフェイディアスがネメシス像を作った。傲慢への報いという女神の性格にふさわしい由来として語られる。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀
パウサニアスは、ラムヌスの像をはじめ古いネメシス像にはどれも翼がなく、翼をつけるのは「女神は恋の結果として現れることが多い」と考えた後代の作家たちだ、と書き留めている。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀
オウィディウスでは、ナルキッソスに冷たくされた者の一人が「彼も恋をして、恋したものを手に入れられませんように」と祈り、ラムヌシア(ネメシス)がそれを聞き入れる。これがナルキッソスが水に映った自分に恋する発端になる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
『神統記』で夜は、運命の女神たちに続いて「死すべき人間を苦しめるために」ネメシスを産み、そのあとに欺き、愛欲、老い、争い(エリス)が続く。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『仕事と日』は、鉄の時代の終わりには恥じらい(アイドス)とネメシス(憤り)が白い衣をまとって地上を去り、神々の仲間に加わって、人間には苦しみだけが残ると予言する。ここでのネメシスは、不正に対して人が抱くべき憤りの感覚でもある。
ヘシオドス『仕事と日』 前700年頃
ホメロスで νέμεσις は、恥ずべき行いに対して周囲が抱く「憤り・非難」を表す普通名詞で、女神としては登場しない。ヘレネが「人々の非難を気にかける夫が欲しかった」と嘆く場面や、ポセイドンがアカイア勢に「恥と憤りを胸に置け」と励ます場面で使われる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
1.33.3 ラムヌスのネメシス像について「オケアノスはネメシスの父だ」と言う人々がいると伝える。パウサニアス自身はこの説明に与していない
197-201
ネメシス / nemesis英語 nemesis は1570年代に女神の名として入り、1590年代から小文字で「因果応報・天罰」の意味で使われるようになった。「どうしても勝てない相手・宿敵」の意味は1930年ごろから。元のギリシャ語 nemesis は「正当な憤り」で、文字どおりには「(当然の分の)配分」を意味し、動詞 nemein「割り当てる」と関係がある。