オウィディウスの形: 河神ケピソスとニンフのリリオペの子。16歳で多くの若者と娘に言い寄られるが誰にもなびかず、エコーも拒む。拒まれた若者の祈りを受けて、泉に映る自分の姿に恋し、やせ衰えて死ぬ。遺体は消え、中心が黄色く白い花びらに囲まれた花が残った。
オウィディウス『変身物語』 8年頃

Νάρκισσος人間
水に映る自分の姿に見入るナルキッソス。カラヴァッジョの絵。 『ナルキッソス』 カラヴァッジョ 1600年Public domain
自分のことが大好きな人を、ナルシストと呼ぶ。その語のもとになったのが、水に映った自分の姿に恋をして死んだ少年、ナルキッソスである。
今よく知られている形は、ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』にある。
川の神ケピソスの子を産んだニンフのリリオペが、盲目の予言者テイレシアスに尋ねた。この美しい子は、長生きできるでしょうか。予言者の答えは謎めいていた。自分を知ることさえなければ。誰もがつまらない言葉だと思ったが、結末はそのとおりになる。
少年は16歳になると、大人とも子どもともつかない美しさで、若者からも娘からも言い寄られた。けれども高慢な彼は、誰一人相手にしなかった。
山のニンフ、エコーもその一人だった。彼女は、人の言葉の終わりを繰り返すことしかできない。女神ヘラの罰である。ゼウスが山でニンフたちと会っていると、エコーはヘラをいつまでも長話で引き止め、そのすきにニンフたちを逃がしていた。それに気づいたヘラは言った。私をだましたその舌は、これからはほとんど役に立たなくなる、と。森で仲間とはぐれた少年が「誰かいるのか」と叫べば、「いるのか」と返すしかない。やがて姿を現して抱きつこうとしたエコーを、少年は突き放した。お前に触れられるくらいなら死んだほうがましだ、と。
拒まれたエコーは、恥じて森に隠れた。眠れないほどの悲しみに体はやせ細り、美しい姿は風に溶けるように消えて、声と骨だけが残った。骨は石になったという。それからというもの、山で彼女の姿を見る者はいない。けれど、誰にでも声は聞こえる。彼女の中で生きているのは、その響きだけになった。
そうして袖にされた者の一人が、天に手を上げて祈った。あの少年も誰かを愛し、そしてその相手を手に入れられませんように。祈りは、報いの女神ネメシスに聞き届けられた。
森の奥に、羊飼いも獣も鳥も近寄らない、銀のように澄んだ泉があった。狩りに疲れた少年は、水を飲もうと身をかがめる。そこに見えた顔に、彼は恋をした。

水面に口づけしようとしても、首を抱こうと腕を差し入れても、相手はつかめない。ほほえめば、相手もほほえむ。手を伸ばせば、相手も伸ばしてくる。食べることも眠ることも忘れて見つめ続けるうちに、少年はついに気づく。これは自分だ。自分に恋をしているのだ、と。欲しいものは、もう自分が持っている。持っているからこそ、手に入らない。できることなら、この体から離れてしまいたい。恋する者の願いとしては奇妙だが、愛する相手がそばにいなければいいのに。
気づいても、目を離すことはできなかった。少年は炎に溶ける蝋のようにやせ衰えていった。最後に「さようなら」とつぶやくと、そばでエコーも「さようなら」と返した。
姉妹のニンフたちが弔いの火を用意して戻ってくると、遺体はどこにもなかった。そこには、白い花びらが黄色い中心を囲む一輪の花が咲いていた。スイセンである。死んで冥界に下ったあとも、少年は冥界の川ステュクスに映る自分の姿を見つめ続けているという。
ところが、オウィディウスより前の話には、エコーは出てこない。
この物語の出典: 作者不詳(ニカイアのパルテニオスに帰する説あり)『オクシュリンコス・パピルス 4711(変身譚のエレゲイア詩断片)』、コノン『物語集(ディエーゲーセイス)』、オウィディウス『変身物語』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
オウィディウスの形: 河神ケピソスとニンフのリリオペの子。16歳で多くの若者と娘に言い寄られるが誰にもなびかず、エコーも拒む。拒まれた若者の祈りを受けて、泉に映る自分の姿に恋し、やせ衰えて死ぬ。遺体は消え、中心が黄色く白い花びらに囲まれた花が残った。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
コノンの形: 舞台はボイオティアのテスピアイ。言い寄る男たちを退け、最も熱心なアメイニアスには剣を送りつける。アメイニアスはその剣で戸口で自害し、神に復讐を祈る。ナルキッソスは泉の自分に恋し、罰を受けたと悟って自害する。流れた血からスイセンが生えたと土地の人は言う。エコーは登場せず、求愛者はすべて男性。
コノン『物語集(ディエーゲーセイス)』 前1世紀末〜後1世紀初め
オウィディウスより前の形とされるギリシャ語の詩の断片が、エジプトのオクシュリンコス出土のパピルスから見つかっている。ここでもエコーの痕跡はなく、ナルキッソスは自害し、その血からスイセンが生える。オックスフォード大学の解説は「今なじみのある形を与えたのはオウィディウスが最初だったかもしれない」とまとめている。
作者不詳(ニカイアのパルテニオスに帰する説あり)『オクシュリンコス・パピルス 4711(変身譚のエレゲイア詩断片)』 前1世紀の作とする説(パピルス自体は1〜2世紀頃)
パウサニアスはテスピアイ領ドナコンに「ナルキッソスの泉」があると記しつつ、恋をする年頃の者が自分と他人の像を見分けられないはずがないと退ける。代わりに、瓜二つの双子の妹を亡くしたナルキッソスが、水に映る自分の姿に妹の面影を見て慰めた、という「あまり知られていない」別伝を紹介する。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀
精神医学の用語 Narzissismus(ナルシシズム)は1899年にドイツの精神科医パウル・ネッケが作った。前年の1898年にハヴロック・エリスがオウィディウスのナルキッソスになぞらえたのが下地。英語 narcissism の初出は1905年、narcissist は1919年。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
母が息子の長寿を尋ねると、テイレシアスは「自分を知らなければ」と答える。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
拒まれた者の一人が「彼も恋をし、恋した相手を得られませんように」と祈り、ネメシスがこれを聞き届ける。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
死後、冥界に下っても、ナルキッソスはステュクスの水に映る自分の姿を見つめ続けている。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
エコーとナルキッソスを一つの物語にしたのは、現存する資料ではオウィディウスが最初。それ以前の伝承(コノン、パピルス断片)にはエコーが出てこない。エコーの「他人の言葉の終わりしか繰り返せない」声を、自分の像しか愛せないナルキッソスと対にした構成は、オウィディウスの工夫と考えられている。
作者不詳(ニカイアのパルテニオスに帰する説あり)『オクシュリンコス・パピルス 4711(変身譚のエレゲイア詩断片)』 前1世紀の作とする説(パピルス自体は1〜2世紀頃)、コノン『物語集(ディエーゲーセイス)』 前1世紀末〜後1世紀初め、オウィディウス『変身物語』 8年頃
パウサニアスは、スイセンの花はナルキッソスより前からあったと考えた。根拠は詩人パンポスで、ペルセポネ(コレ)が連れ去られたときに摘んでいた花はスミレではなくスイセンだったと歌っていたから。スイセンがペルセポネの誘拐に登場する点は『デメテル讃歌』とも一致する。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃、パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀
9.31.7
ナルシシズム / ナルシスト(narcissism, narcissist)自己愛を指す精神医学の用語。1899年にドイツの精神科医パウル・ネッケが Narzissismus として作り、その前年の1898年にハヴロック・エリスが、自分の姿に恋したナルキッソス(オウィディウス『変身物語』3.339-510)になぞらえたのが下地になった。英語 narcissism の初出は1905年、narcissistic は1912年、narcissist は1919年。
スイセン属の学名 Narcissus(英 narcissus)英語 narcissus(スイセン)は1540年代から。ラテン語 narcissus、ギリシャ語 νάρκισσος から。古くからギリシャ語 νάρκη(しびれ)と結びつけて「麻痺させる花」と説明されてきたが、語源辞典は言語学者ビークスの見解を引いて、これを民間語源とし、語尾から見てギリシャ語以前の言語の語だとする。花の名と人名のどちらが先かについて、パウサニアス(9.31.9)は花のほうが古いと考えていた。