ホメロスでムーサが「九人」とはっきり言われるのは『オデュッセイア』の最終巻、アキレウスの葬儀で九人のムーサが代わる代わる挽歌を歌う場面の一箇所だけ。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃

Μοῦσαι神
アポロンを囲んで集うムーサたち。 『パルナッソス山のアポロンとムーサたち(ラファエロによる)』 サミュエル・ウッドフォード 1804年Public domain
ミュージック(音楽)と、ミュージアム(博物館)。二つの英語は、同じ女神たちの名前から生まれた。ギリシャ神話のムーサ、英語でいうミューズである。
「わたしたちは、本当らしい嘘をいくらでも語れる。その気になれば、本当のことも語れる」。
そう言い放って、羊飼いの男を詩人に変えてしまったのが、この詩と音楽と学芸の女神たちだった。
神々の誕生を語る叙事詩『神統記』の語り手は、自分をヘシオドスと名乗り、女神たちとの出会いをこう語っている。山のふもとで羊の番をしていると、女神たちが現れて先の言葉を告げた。そして月桂樹の杖を手渡し、これから起きることと過ぎたことを語る、神の声を彼に吹き込んだ。

同じ『神統記』によれば、ムーサたちはゼウスと記憶の女神の娘である。ゼウスが九夜続けて記憶の女神のもとに通い、九人の娘が生まれた。歌が記憶から生まれる、という組み合わせは偶然ではないと読めるだろう。九人のうち、『神統記』が最も優れているとするのはカリオペだ。地上に歌い手や竪琴弾きがいるのは、ムーサたちと、音楽の神アポロンのおかげだという。

古代ギリシャの叙事詩は、ムーサへの呼びかけで始まるのが決まりだった。『イリアス』は「歌え、女神よ、アキレウスの怒りを」、『オデュッセイア』は「語ってくれ、ムーサよ、あの男のことを」。詩人は自分で語るのではなく、女神の言葉を取り次ぐ役に回る。『イリアス』は、ギリシャ軍の船と将を並べる前に、改めて女神に頼んでいる。あなたがたは神で、その場にいてすべてを知っている。わたしたちは噂を聞くだけで、何も知らないのだから、と。
ムーサは歌を与えもするし、奪いもする。『イリアス』には、ムーサより上手に歌えると豪語した楽人が出てくる。怒った女神たちは彼の目を潰し、歌の力も取り上げた。一方『オデュッセイア』の盲目の楽人は、女神に視力を奪われた代わりに、甘い歌を授かったとされる。
ローマの詩人オウィディウスは、ムーサに歌比べを挑んだ九人姉妹の話を伝えている。人数が同じだからと思い上がった姉妹は、山の精たちを審判に立ててムーサと競い、負けた。それでも悪口をやめない姉妹は、なんでも真似してさえずるカササギに変えられた。

女神たちは、名だたる者たちの母でもある。アポロドーロスによれば、竪琴で獣も木も動かした楽人オルペウスを産んだのはカリオペで、美しい歌で船乗りを誘う怪物セイレンたちの母もムーサの一人だった。テバイの町を苦しめたスフィンクスの謎も、ムーサたちから教わったものだという。
『イリアス』と『オデュッセイア』で、ムーサが九人だとはっきり書かれるのは一か所だけ。アキレウスの葬儀で、九人のムーサが代わる代わる、死を悼む歌を歌う場面である。ムーサが最初から九人だったかどうかは、古代の書き手の間でも話が分かれている。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ヘシオドス『神統記』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
ホメロスでムーサが「九人」とはっきり言われるのは『オデュッセイア』の最終巻、アキレウスの葬儀で九人のムーサが代わる代わる挽歌を歌う場面の一箇所だけ。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
パウサニアスによれば、ヘリコン山で最初にムーサを祀ったアロエウスの子らは、ムーサを三人とし、メレテ(修練)、ムネメ(記憶)、アオイデ(歌)と名づけていた。のちにマケドニアのピエロスが九人とし、今の名前をつけたと伝える。
パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀
ムーサたちは有名な楽人や怪物の母でもある。アポロドロスは、カリオペの子にオルペウスとリノス、メルポメネの子にセイレンたち、エウテルペ(一説にカリオペ)の子にトロイアで死ぬトラキア王レソスを挙げる。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
英語の music はギリシャ語 mousikē(technē)「ムーサたちの(技)」から、museum は mouseion「ムーサたちの神殿・学問の場」から来ている。museum は最初、アレクサンドリアの学術施設を指す語として英語に入った。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
オウィディウスでは、九人姉妹がムーサに歌比べを挑み、ニンフたちの審判で敗れたうえ、ムーサをののしり続けたためカササギに変えられる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
『神統記』では、ゼウスがピエリアで記憶の女神ムネモシュネと九夜を共にし、九人のムーサが生まれる。名前はクレイオ、エウテルペ、タレイア、メルポメネ、テルプシコレ、エラト、ポリュムニア、ウラニア、そして最も優れたカリオペ。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ヘシオドスは、ヘリコン山で羊を飼っていたとき、ムーサたちが現れて「我々は本当らしい嘘をたくさん語れるし、望めば真実も語れる」と告げ、月桂樹の杖と神の声を吹き込んで詩人にした、と自分の召命を語る。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ホメロスの詩はムーサへの呼びかけで始まる。『イリアス』の軍勢の一覧では「あなたがたは神で、その場にいてすべてを知っているが、我々は噂を聞くだけで何も知らない」と、過去を語る力を女神に委ねる。ただしホメロスではムーサの数や名前はほとんど語られない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
ムーサは歌を与えもし奪いもする。『イリアス』では、ムーサより上手に歌えると豪語した楽人タミュリスが、怒ったムーサに目を潰され歌を奪われる。『オデュッセイア』の盲目の楽人デモドコスは、ムーサに視力を奪われた代わりに甘美な歌を授かったとされる。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
64-65 ムーサたちの住まいのそばにカリスたちとヒメロス(欲望)が住む
1-34 ヘリコンの女神たち
『神統記』77 九柱の一人
『神統記』78 九柱の一人
『神統記』77 九柱の一人
『神統記』77 九柱の一人
『神統記』78 九柱の一人
『神統記』78 九柱の一人
『神統記』77 九柱の一人
『神統記』78 九柱の一人
楽しませる / amuse(ムーサとは無関係)amuse(楽しませる)や amusement(娯楽・アミューズメント)はムーサと関係がありそうに見えるが、実際には関係がない。古フランス語 amuser「気をそらす、だます」から来ていて、元になった muser は「ぼんやり見つめる、考えにふける」という意味の別の語である。英語での最初の意味は「欺く」で、今の「楽しませる」の意味は1630年代から。ギリシャ語 amousos は「ムーサのいない」つまり「無教養な」の意味で、これも別物。
博物館・美術館 / museum英語 museum はラテン語 museum を経て、ギリシャ語 mouseion「ムーサたちの神殿」から来ている。英語に入った1610年代には、アレクサンドリアの学術施設(ムセイオン)を指した。展示物を収める建物の意味で使われるのは1680年代から。
音楽 / music英語 music はラテン語 musica を経て、ギリシャ語 mousikē (technē)「ムーサたちの(技)」から来ている。古代ギリシャでは、ムーサが司るあらゆる技芸、特に音楽と抒情詩を指した。今の綴りは1630年代から。