ギリシャ神話の地図
ゼウス起こした神ポセイドン加勢した神プロメテウス助言者ガイア偉大な母パンドラ妻の母テミス神託の女神デウカリオン生き残った夫ヘレン息子

デウカリオンの洪水

κατακλυσμός出来事

英語で大災害や大変動のことを「カタクリズム」という。17世紀に英語に入ったとき、この言葉はまず「大洪水」を意味していた。ローマ時代の神話集は、ギリシャ神話のある洪水を、まさにこの言葉で呼んでいる。神々の王ゼウスが人間を滅ぼすために起こした、デウカリオンの洪水である。

人類がほとんど滅びたあと、世界はどうやってやり直されたのか。

ローマの詩人オウィディウスによれば、発端は人間の堕落だった。とりわけ、ある王の非道がゼウスを怒らせる。ゼウスは神々を集めて、人間の種族を滅ぼすと宣言した。はじめは雷で焼き払おうとしたが、炎が天まで燃え移るのを恐れ、水で滅ぼすことにした。海の神ポセイドンも、兄弟に加勢して波を送り込んだ。

オウィディウスの描く洪水の光景は、どこか不思議だ。ついこのあいだまで山羊が草を食んでいた場所に、アザラシが寝そべる。海の娘たちは水の底の森や町や家を見て目を丸くし、イルカは森の中を泳ぎ回って、梢にぶつかる。狼が羊と並んで泳ぎ、疲れた鳥は止まる場所もなく海に落ちた。波に呑まれなかった者も、長い飢えに倒れていく。

水かさを増す洪水のなか、人も獣も高い所へ逃れようとする。
水かさを増す洪水のなか、人も獣も高い所へ逃れようとする。『デウカリオンの洪水』 1589年 アムステルダム国立美術館CC0

それでも、生き残った夫婦がいた。人間に火を与えた神プロメテウスの息子デウカリオンと、その妻ピュラである。ピュラは、最初の女パンドラの娘だった。後の神話集によれば、デウカリオンは父プロメテウスの助言に従って大きな箱を作り、食べ物を積んで妻と乗り込んでいる。二人を乗せた箱は、9日9晩、海となった大地の上を漂い、やがてパルナッソス山に流れ着いた。

オウィディウスは、この二人がどれほど正しく、神々を敬う人間だったかを強調する。水の上に残ったのが、罪のない二人だけだと見て、ゼウスは雲を払い、海の神は波を引かせた。

大地は戻ってきた。しかし、そこには誰もいない。二人は涙を流し、掟の女神テミスの神殿に祈った。どうすれば人間の種族をよみがえらせられるのか、と。女神は答えた。神殿を出て、頭を覆い、帯をほどき、偉大な母の骨を背後に投げよ。

ピュラは震え上がった。母の骨を投げるなど、母の霊を傷つけることはできない。二人はしばらくこの謎めいた言葉を考え続け、やがてデウカリオンが思い当たる。偉大な母とは、大地のことではないか。その骨とは、大地の体の中にある石のことだろう、と。

二人は言われたとおり、頭を覆い、帯をほどいて、石を肩越しに後ろへ投げた。すると石は、硬さを失って柔らかくなり、少しずつ人の形をとりはじめる。まるで彫りかけの大理石像のように。デウカリオンの投げた石は男になり、ピュラの投げた石は女になった。だから人間は硬く、苦労に耐える種族なのだ、とオウィディウスは結ぶ。

顔を覆って石を背後に投げる夫婦。投げた石が、人の姿に変わっていく。
顔を覆って石を背後に投げる夫婦。投げた石が、人の姿に変わっていく。『新しい人類をつくるデウカリオンとピュラ』 1589年 アムステルダム国立美術館CC0

デウカリオンとピュラのあいだには、息子ヘレンが生まれた。ギリシャ人が自分たちを呼ぶ名「ヘレネス」は、この息子の名にちなむとされる。

この物語の出典: ピンダロス『祝勝歌集』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』

この物語の人々

こういう風にも語られている

箱舟が着いたのはパルナッソス山。アポロドーロス、オウィディウス、ピンダロスがそろってこの山を挙げる。

ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半、オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

ヒュギヌスだけは、デウカリオンとピュラが逃れたのはシチリアの最高峰エトナ山だったとする。

ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃

水が引いたあと、二人が背後に投げた石から男と女が生まれた。人間の作り直し方としては、プロメテウスが土から人を造ったという話(アポロドーロス 1.7.1)と並んで、ギリシャ神話に二つある人類の起源の一つになる。

オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

ローマ以後の語り

ゼウスが青銅の種族を滅ぼそうとしたとき、デウカリオンは父プロメテウスの助言で箱(ラルナクス)を作り、食糧を積んでピュラと乗り込んだ。ゼウスは大雨でギリシャの大半を水浸しにし、近くの高い山に逃げたわずかな者を除いて人間は滅びた。このときテッサリアの山々が裂け、イストモスとペロポネソスの外の世界はすべて水に沈んだという。二人は9日9夜漂ってパルナッソスに着いた。

アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

オウィディウスでは、発端は人間の堕落とリュカオンの非道。ユピテルははじめ雷で焼き払おうとするが、火が天まで燃え移るのを恐れ、水で滅ぼすことにする。兄弟ネプトゥヌスも波で加勢する。

オウィディウス『変身物語』 8年頃

生き残りが二人だけかどうかは出典で違う。オウィディウスとヒュギヌスは二人だけとするが、アポロドーロスは近くの高い山に逃げたわずかな者も生き延びたと書く。

オウィディウス『変身物語』 8年頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

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オウィディウスの洪水の描写では、山羊が草を食んだ所にアザラシが寝そべり、ネレイスたちは水中の森や町や家に驚き、イルカが森を泳いで枝にぶつかる。狼は羊のあいだを泳ぎ、止まる所のない鳥は疲れて海に落ち、波を逃れた者も飢えに倒れた。

オウィディウス『変身物語』 8年頃

オウィディウスでは、デウカリオンとピュラが頭を覆い帯を解いて石を後ろへ投げると、石は硬さを失って柔らかくなり、彫りかけの大理石像のように人の形をとり、湿った部分は肉に、硬い部分は骨になった。男の投げた石は男に、女の投げた石は女になり、だから人間は硬く労苦に耐える種族なのだと語られる。

オウィディウス『変身物語』 8年頃

アポロドーロスでは、デウカリオンは9日9晩箱に乗って海を漂い、パルナッソスに着いて、雨がやむと逃避の守り手ゼウスに犠牲を捧げた。ゼウスがヘルメスを遣わして望みを尋ねると、デウカリオンは人間を得たいと答えた。

アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

もっと詳しく

現存する作品で洪水をはっきり語る最古の一つは、前5世紀のピンダロス。ゼウスの意志で水が黒い大地を覆い、やがて引いたこと、ピュラとデウカリオンがパルナッソスから下りて石から民を作ったことを、勝利者の故郷オプスの由来として歌う。

ピンダロス『祝勝歌集』 前5世紀前半

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カタクリズム / cataclysm英語 cataclysm(大変動、大災害)は、ギリシャ語 kataklysmos(洪水、氾濫。kata「下へ」+ klyzein「洗う」)から来た語で、1630年代に英語に入ったときは「大洪水」、とくにノアの洪水を指した。ヒュギヌス(153)はデウカリオンとピュラの話を「我々が diluvium(洪水)と呼ぶ cataclysmus が起きたとき」と書き起こしており、ラテン語の神話便覧でもこのギリシャ語がデウカリオンの洪水に使われている。

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このページの出典(4件)
  1. 前5世紀前半ピンダロス『祝勝歌集』
  2. 8年頃オウィディウス『変身物語』
  3. 1〜2世紀頃アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
  4. 1〜2世紀頃ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』