冥界の地図 五つの川と、地上にあった入口
死者の国には、どんな川が流れ、どこへ分かれ道が続くのか。ステュクス、アケロン、レテ、コキュトス、ピュリプレゲトン。ホメロスから少しずつ書き足されていった冥界の地図と、地上で「冥界の入口」とされた場所をたどる。
冥界はどこにあるのか
ホメロスの冥界は、地の下ではない。『オデュッセイア』で魔女キルケは、世界を取り巻く大河オケアノスを越えて、ポプラと柳の茂るペルセポネの森の岸に船を着けよ、とオデュッセウスに教える。冥界は世界の果ての、海の向こうにあった。
ホメロスオデュッセイア
五つの川

『オデュッセイア』のキルケは、冥界の川の名を三つ挙げる。ピュリプレゲトンと、ステュクスの水から分かれたコキュトスが、アケロンに流れこむ。その合流点の岩で穴を掘り、死者を呼べ、と。冥界の川の地図は、ここから始まる。
ホメロスオデュッセイア
ステュクスは、神々がいちばん重く誓うときに呼ぶ川だ。『神統記』によれば、ティタンとの戦いで真っ先にゼウスの側についた功で、この役目を与えられた。ステュクスの水にかけて誓い、それを破った神は、一年のあいだ息もできずに倒れ、さらに九年、神々の集まりから締め出される。
古拙期神統記
プラトン『パイドン』のソクラテスは、地下の四つの大河を描く。いちばん外を回るオケアノス、それと逆に流れて多くの死者の魂が集まる湖に注ぐアケロン、火の燃えさかる広い場所に落ちるピュリプレゲトン、そしてステュクスの湖をつくるコキュトス。
古典期パイドン
渡し守と番犬
冥界の入口を守る番犬は、ヘシオドスがすでに描いている。入ってくる者には耳と尾を振ってすり寄るが、出ようとする者は捕らえて食う。冥界は、入れるが出られない場所だった。
古拙期神統記
分かれ道の先
ウェルギリウスで、地図ははっきり二手に分かれる。冥界の道の左は罪人が罰を受けるタルタロス、右は善人の魂が住む明るい野エリュシオン。その奥の谷を、忘却の川レテが流れている。
ローマ期アエネイス
地上にあった冥界の入口
- 1アケロン川と死者の神託所ギリシャ北西部テスプロティアの川。ほとりに死者の霊に問う神託所があった(ヘロドトス)。パウサニアスは、近くにアケルシアス湖とコキュトスの流れもあると書くアケロン
- 2ノナクリスの崖(ステュクスの水)アルカディアの町ノナクリスの近く、高い崖から滴る水がステュクスと呼ばれた。点は町の位置ステュクス
- 3タイナロン岬ペロポネソス半島の南の端。ヘラクレスはここの「冥界へ下る口」から下った(アポロドーロス)。オウィディウスのオルフェウスも、タイナロンの門から下るヘラクレスオルフェウスケルベロス
- 4ヘルミオネ神殿の裏に「アケルシアス湖」と呼ばれる場所と地の裂け目があり、ヘラクレスはそこから冥界の犬を連れ出した、と町の人々は言った(パウサニアス)ケルベロス
- 5アウェルヌス湖(イタリア)(地図に点なし)アイネイアスは、クマエ近くのこの湖のほとりの洞窟から冥界へ下る(ウェルギリウス)。地図の範囲の外なので、点は打っていないアイネイアス
冥界の川の名は、地上の川や水の名でもあった。ギリシャ北西部のテスプロティアには、アケロン川とアケルシアス湖があり、川のほとりには死者の霊に問う神託所があった。ヘロドトスによれば、コリントスの独裁者ペリアンドロスがここへ使いを送ると、亡き妻の霊は、一緒に埋めた衣が焼かれなかったので寒くて裸だ、と言って答えなかった。
いまの言葉に残る冥界
英語の lethargy(無気力、昏睡)は、レテ(忘却)と「怠惰な」を合わせた古いギリシャ語から来ている。パリの大通りシャンゼリゼは、フランス語で「エリュシオンの野」そのものだ。
近現代オンライン語源辞典近現代日本大百科全書(ニッポニカ)近現代改訂新版 世界大百科事典
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この話の項目
- 冥界死者の魂が行く地下(あるいは世界の西の果て)の国。王はハデスと妃ペルセポネ。ホメロスでは「ハデスの館」と呼ばれ、オケアノスの流れの向こうにある。アケロン、ピュリプレゲトン、コキュトス、ステュクスなどの川、渡し守カロン、番犬ケルベロス、罪人のためのタルタロス、善人のためのエリュシオン、といった「地図」は時代を追って書き足されていった。
- ハデス冥界を支配する神で、ゼウス・ポセイドンの兄弟。オリュンポスには住まず、十二神に数えられないのが通例。ペルセポネを攫って妻とし、その和解から季節の循環が生まれる。
- ペルセポネデメテルとゼウスの娘で、ハデスに攫われて冥界の女王となった。ザクロの種を口にしたため一年の一部を地下で過ごすことになり、その往復が季節の循環と結びつけられる。ホメロスでは誘拐譚を欠いたまま、すでに厳然たる冥界の女王として現れる。
- ステュクス冥界を流れる川であり、その川の女神。ヘシオドスではオケアノスの娘たちのなかで最も優れた者で、ティタン戦争のとき真っ先に子らを連れてゼウスの側についた功で、「神々の誓いの証」という特別な役目を与えられた。神がステュクスの水にかけて誓って破れば、一年間息もできずに倒れ、九年間神々の集まりから締め出される。
- アケロン冥界を流れる川。『オデュッセイア』では、ほかの二つの川が流れこむ冥界の川で、その合流点でオデュッセウスは死者を呼び出す。プラトンの『パイドン』では、多くの死者の魂が集まって生まれ変わりを待つ湖に注ぐ。ギリシャ北西部のテスプロティアには同じ名の実在の川と湖があり、ヘロドトスは川のほとりに死者の神託所があったと伝える。『アエネイス』の一行「アケロンを動かそう」は、フロイトの『夢判断』の扉に掲げられた。
- レテ冥界にある「忘却」の川(または野)。死者の魂がその水を飲むと、前世の記憶をすべて忘れる。もとは「忘却」という普通名詞で、ヘシオドスでは争いの女神エリスの子として擬人化される。川の名として定着するのはプラトン以後、とくにウェルギリウスから。
- タルタロス冥界(ハデスの館)よりさらに深い、大地の底の暗い淵。ホメロスとヘシオドスでは、ゼウスに敗れたティタン神族が閉じ込められる神々の牢獄だった。のちにウェルギリウスらによって、罪人が罰を受ける場所としても描かれるようになる。ヘシオドスでは原初の神の一柱でもある。
- エレボス闇の神、または地下の闇の領域そのもの。『神統記』ではカオスから夜(ニュクス)とともに生まれた原初の存在で、夜と交わって昼と上空の輝きを生む。ホメロスでは人格神としてではなく、死者の魂が集まる地下の暗がりを指す地名のように使われる。
- エリュシオン選ばれた英雄や善人が死後に(あるいは死なずに)送られる楽園。ホメロスでは冥界とは別の「大地の果て」にあって、神々に縁のあるメネラオスが死なずに行く所だった。ウェルギリウスでは冥界の中の、善人の魂が住む明るい野になる。パリのシャンゼリゼ大通りはこの名のフランス語訳。
- ケルベロス冥界の入口を守る番犬。入ってくる者には尾を振るが、出ようとする者は食う。ヘラクレスの最後の功業で地上に引き出された。頭の数は、ヘシオドスの50から、のちの3つへと変わっている。
- カロン死者の魂を舟に乗せて冥界の川(または湖)を渡す老いた渡し守。ホメロスにもヘシオドスにも登場せず、散逸した叙事詩の断片や前5世紀の悲劇・喜劇から姿を現す。死者に持たせる硬貨の「渡し賃」と結びつけて語られ、冥王星の最大の衛星にも名を残す。
- オルフェウス竪琴と歌で獣や木や岩まで動かしたトラキアの詩人。亡くした妻エウリュディケを連れ戻しに冥界へ下るが、地上の手前で振り返って再び失う。この「振り返る」結末がまとまった物語として読めるのはウェルギリウスとオウィディウスからで、オペラ・映画でもっとも多く翻案されたギリシャ神話の一つ。
- ヘラクレスゼウスとアルクメネの子の英雄。ヘラに憎まれ、母のいとこにあたるエウリュステウスに仕えて数々の難業をこなした。トロイアをトロイア戦争の一世代前に一度攻め落とし、その弓はのちにピロクテテスに渡ってトロイア陥落の鍵になる。
- アイネイアスアンキセスとアフロディーテの子で、トロイア側でヘクトルに次ぐ武将。『イリアス』では二度も神に救い出され、「その子孫がトロイア人を治める」と予言される。この一節が、後にローマ建国の祖とする『アエネイス』へと接続された。
- アキレスペレウスと女神テティスの子で、トロイアに来たギリシャ勢で最強の戦士。『イリアス』はその「怒り」を主題とする。踵の弱点で有名だが、その話はホメロスには無く、ずっと後代の付け足しである。
- メネラオススパルタ王でヘレネの夫。アガメムノンの弟。妻を連れ去られたことでトロイア遠征の当事者になる。
ほかの特集
- 地図で見るトロイア戦争 どこから誰が来たのかギリシャ中の王たちが船を出し、アナトリアの国々がトロイアに味方した。『イリアス』の「船の目録」をもとに、両軍がどこから来たのかを地図で見る。
- オデュッセイアの寄港地めぐり 古代の人も地図に探した、二十年の帰り道ロートスを食べる人々の岸、一つ目の巨人の洞窟、魔女キルケの島、歌う島と海峡の怪物。オデュッセウスが立ち寄った場所を順にたどり、古代の人がそれを地図のどこに置いたか、イタケはどこなのか、帰ったあと何が待っていたのかまで読む。
- 惑星と衛星の神話地図 太陽系に並ぶ、神々の家族火星のまわりを回るのは軍神の息子たち、木星のまわりにはゼウスの恋人たち、土星のまわりには子を呑んだ父の兄弟姉妹。天文学者たちが名前を選ぶとき、神話の家族関係をそのまま夜空に写した。惑星ごとに、誰がそのまわりを回っているかをたどる。