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冥界の地図 五つの川と、地上にあった入口

死者の国には、どんな川が流れ、どこへ分かれ道が続くのか。ステュクス、アケロン、レテ、コキュトス、ピュリプレゲトン。ホメロスから少しずつ書き足されていった冥界の地図と、地上で「冥界の入口」とされた場所をたどる。

冥界はどこにあるのか

ホメロスの冥界は、地の下ではない。『オデュッセイア』で魔女キルケは、世界を取り巻く大河オケアノスを越えて、ポプラと柳の茂るペルセポネの森の岸に船を着けよ、とオデュッセウスに教える。冥界は世界の果ての、海の向こうにあった。

ホメロスオデュッセイア

ヘシオドスの『神統記』は、深さを数で示す。青銅の金床を天から落とすと、九日九夜かかって十日目に地に着く。地から落とすと、また九日九夜かかって十日目にタルタロスに着く。そこは死んだ人間の行く所ではなく、ゼウスに敗れたティタンたちを閉じこめる、神々の牢獄だった。

古拙期神統記

ハデスという名も、もとは神の名で、場所の名ではない。ホメロスは冥界を「ハデスの館」と呼ぶ。くじで天をゼウスが、海をポセイドンが、そして「暗い闇」をハデスが引いた、と『イリアス』は語る。

ホメロスイリアス

五つの川

パティニールが描いた、冥界の川を渡るカロンの舟
パティニールが描いた、冥界の川を渡るカロンの舟ヨアヒム・パティニール『ステュクスを渡る風景』1520〜1524年・Public domain

『オデュッセイア』のキルケは、冥界の川の名を三つ挙げる。ピュリプレゲトンと、ステュクスの水から分かれたコキュトスが、アケロンに流れこむ。その合流点の岩で穴を掘り、死者を呼べ、と。冥界の川の地図は、ここから始まる。

ホメロスオデュッセイア

ステュクスは、神々がいちばん重く誓うときに呼ぶ川だ。『神統記』によれば、ティタンとの戦いで真っ先にゼウスの側についた功で、この役目を与えられた。ステュクスの水にかけて誓い、それを破った神は、一年のあいだ息もできずに倒れ、さらに九年、神々の集まりから締め出される。

古拙期神統記

プラトン『パイドン』のソクラテスは、地下の四つの大河を描く。いちばん外を回るオケアノス、それと逆に流れて多くの死者の魂が集まる湖に注ぐアケロン、火の燃えさかる広い場所に落ちるピュリプレゲトン、そしてステュクスの湖をつくるコキュトス。

古典期パイドン

「忘却」の川レテは、いちばん遅れて地図に加わった。ヘシオドスでは、争いの女神エリスの子として擬人化された「忘却」にすぎない。プラトンの「エルの物語」では、生まれ変わる前の魂が「レテの野」を進み、川の水を飲んですべてを忘れる。はっきり「レテの川」になるのはウェルギリウスからで、次の体を待つ魂たちが、その水で長い忘却を飲む。

古拙期神統記古典期国家ローマ期アエネイス

渡し守と番犬

冥界の入口を守る番犬は、ヘシオドスがすでに描いている。入ってくる者には耳と尾を振ってすり寄るが、出ようとする者は捕らえて食う。冥界は、入れるが出られない場所だった。

古拙期神統記

渡し守カロンは、ホメロスにもヘシオドスにも出てこない。もっと後の時代に姿を現し、ウェルギリウスの『アエネイス』では、白いひげに炎のような目の老人として、アケロンの岸で舟を操る。岸には秋の落ち葉ほどの死者が押し寄せるが、葬られていない者は百年さまよってからでないと渡してもらえない。

ローマ期アエネイスホメロスオデュッセイア古拙期神統記

分かれ道の先

ホメロスの死者の霊は、アスポデロスの野に住む。英雄アキレスでさえ、その野を歩きながら、死者の王でいるより地上で貧しい男の雇われ人でいたい、とオデュッセウスに言った。

ホメロスオデュッセイア

ホメロスのエリュシオンは、冥界の中ではない。大地の果ての野で、雪も雨も降らず、西風がいつも吹く。英雄メネラオスは、死なずにそこへ送られると予言される。

ホメロスオデュッセイア

ウェルギリウスで、地図ははっきり二手に分かれる。冥界の道の左は罪人が罰を受けるタルタロス、右は善人の魂が住む明るい野エリュシオン。その奥の谷を、忘却の川レテが流れている。

ローマ期アエネイス

地上にあった冥界の入口

1234アケロン川と死者の神託所ノナクリスの崖(ステュクスの水)タイナロン岬ヘルミオネ
冥界の川の名をもつ水冥界の入口とされた所冥界の川の名をもつ地上の水と、冥界の入口とされた場所。点の位置は地名辞典 Pleiades の代表点(CC BY)、海岸線は Natural Earth(パブリックドメイン)。
  1. 1アケロン川と死者の神託所ギリシャ北西部テスプロティアの川。ほとりに死者の霊に問う神託所があった(ヘロドトス)。パウサニアスは、近くにアケルシアス湖とコキュトスの流れもあると書くアケロン
  2. 2ノナクリスの崖(ステュクスの水)アルカディアの町ノナクリスの近く、高い崖から滴る水がステュクスと呼ばれた。点は町の位置ステュクス
  3. 3タイナロン岬ペロポネソス半島の南の端。ヘラクレスはここの「冥界へ下る口」から下った(アポロドーロス)。オウィディウスのオルフェウスも、タイナロンの門から下るヘラクレスオルフェウスケルベロス
  4. 4ヘルミオネ神殿の裏に「アケルシアス湖」と呼ばれる場所と地の裂け目があり、ヘラクレスはそこから冥界の犬を連れ出した、と町の人々は言った(パウサニアス)ケルベロス
  5. 5アウェルヌス湖(イタリア)(地図に点なし)アイネイアスは、クマエ近くのこの湖のほとりの洞窟から冥界へ下る(ウェルギリウス)。地図の範囲の外なので、点は打っていないアイネイアス

冥界の川の名は、地上の川や水の名でもあった。ギリシャ北西部のテスプロティアには、アケロン川とアケルシアス湖があり、川のほとりには死者の霊に問う神託所があった。ヘロドトスによれば、コリントスの独裁者ペリアンドロスがここへ使いを送ると、亡き妻の霊は、一緒に埋めた衣が焼かれなかったので寒くて裸だ、と言って答えなかった。

古典期歴史ローマ期ギリシア案内記

ステュクスの水も、アルカディアにあった。ノナクリスの町の近くの高い崖から、細い水が滴っていた。ヘロドトスは、スパルタ王クレオメネスがアルカディア人をこの町に集めて、ステュクスの水にかけて誓わせようとしたと書く。

古典期歴史ローマ期ギリシア案内記

冥界へ下る口とされた場所もある。ヘラクレスは番犬を連れ出しに、ペロポネソス半島の南の端、タイナロンの口から下った。ヘルミオネの人々は、町の地の裂け目こそヘラクレスが犬を連れ出した所だと言った。オルフェウスも、オウィディウスではタイナロンの門から下る。イタリアのアウェルヌス湖のほとりの洞窟は、アイネイアスが下った入口である。

ローマ期ビブリオテーケー(ギリシア神話)ローマ期ギリシア案内記ローマ期変身物語ローマ期アエネイス

いまの言葉に残る冥界

英語の lethargy(無気力、昏睡)は、レテ(忘却)と「怠惰な」を合わせた古いギリシャ語から来ている。パリの大通りシャンゼリゼは、フランス語で「エリュシオンの野」そのものだ。

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フロイトは『夢判断』の扉に、『アエネイス』の一行を掲げた。天上の神々を動かせないなら、アケロンを動かそう。

近現代夢判断(夢解釈)ローマ期アエネイス

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