ヘシオドスは名を挙げ、「50の頭をもち、青銅の声で吠える、生肉を食う」ハデスの犬とする。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃

Κέρβερος怪物
三つの頭を持つケルベロス。ブレイクがダンテ『神曲』のために描いた絵。 『ケルベロス(ダンテ『神曲』の挿絵)』 ウィリアム・ブレイクPublic domain
コンピューターの世界に、ケルベロスという名の認証の仕組みがある。利用者が本物かどうかを確かめて、ネットワークの入口を守る。名付け親の開発者たちが思い浮かべたのは、冥界の入口を守るギリシャ神話の番犬だった。冥王星のまわりにも、同じ名の小さな衛星が回っている。
この番犬の役目は、少し変わっている。死者の国の王ハデスの館の前に座り、入ってくる者には耳と尾を振ってすり寄る。ところが、いったん入った者が出ていこうとすると、捕まえて食べてしまう。入るのは自由、出るのは許さない。冥界とはそういう場所だ、と言わんばかりの番犬である。
親は、怪物の中の怪物だった。神々に挑んだ巨大な怪物と、半分が娘で半分が蛇の怪物。その間に生まれたのが、この番犬である。ヘシオドスの『神統記』は、この犬の頭を50と数え、青銅のような声で吠え、生肉を食らうと書いている。『イリアス』と『オデュッセイア』はもっとそっけなく、名前も出さずに「ハデスの犬」と呼ぶだけだ。
三つの頭の犬、という今おなじみの姿は、少し後の時代に定まった。神話の手引き書を書いたアポロドーロスは、犬の頭が三つ、尾は竜、背中にはあらゆる種類の蛇の頭が生えていると描いている。

この犬を、生きたまま地上へ引きずり出した男がいる。英雄ヘラクレスだ。十二の難業の最後に課されたのが、この番犬を連れてくることだった。冥界へ下ったヘラクレスが番犬を求めると、冥界の王は条件を出した。持っている武器を一つも使わずに屈服させられるなら、連れていってよい。
ヘラクレスは鎧を着込み、獅子の毛皮をかぶって、番犬の首に両腕を回した。尾の竜に噛みつかれても力を緩めず、締め上げて、とうとう屈服させた。地上に連れ出して、難業を命じた王に見せたあと、番犬はまた冥界へ返された。
ローマの詩人オウィディウスは、このとき番犬が怒り狂って三つの口で吠え、緑の野に泡を飛び散らした、と書いている。その泡から生えたのが猛毒の草トリカブトで、のちに魔女メデイアが、英雄テセウスの杯にこの毒を仕込むことになる。
腕力でなく知恵で番犬をやり過ごした者もいる。英雄アイネイアスを冥界へ案内した巫女は、眠り薬をしみ込ませた蜂蜜の団子を投げ与えた。三つの口を開けて飛びついた番犬は、たちまち洞穴いっぱいに伸びて眠り込み、二人はその隙に通り抜けた。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、ウェルギリウス『アエネイス』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ビル・ブライアント(MIT)『認証システムの設計:四場の対話』、小学館『デジタル大辞泉』
ヘシオドスは名を挙げ、「50の頭をもち、青銅の声で吠える、生肉を食う」ハデスの犬とする。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
悲劇やアポロドーロス以降は3つの頭が普通になる。アポロドーロスは「犬の頭が3つ、竜の尾、背中には様々な蛇の頭」と描く。オウィディウスも「三つの吠え声」と書く。
エウリピデス『ヘラクレス(狂えるヘラクレス)』 前420〜前414年頃、オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ハデスは「持っている武器を使わずに制するなら連れて行ってよい」と条件をつけた。ヘラクレスは獅子の皮をまとい、尾の竜に噛まれながら首を抱えて屈服させ、エウリュステウスに見せたあと冥界へ返した。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスは、ヘラクレスに引きずり出されたケルベロスが吐いた泡から毒草アコニトン(トリカブト)が生えたとする。メデイアはこの毒でテセウスを殺そうとした。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
『アエネイス』では、アイネイアスを冥界へ導くクマエの巫女が、眠り薬と蜂蜜をしみ込ませた団子を投げ与え、三つの喉を開けて食らいついたケルベロスが洞穴いっぱいに伸びて眠り込んだ隙に通り抜ける。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
ホメロスは「ハデスの犬」「犬」とだけ呼び、ケルベロスという名も頭の数も出さない。ヘラクレスがそれを連れ出したことは知っている。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
『神統記』の冥界描写では、館の前の番犬は入る者には耳と尾を振ってすり寄るが、出ようとする者は捕らえて食う。冥界が「入れるが出られない」場所であることの象徴。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
309-313 同じ両親から生まれる
トリカブト / aconite猛毒の草トリカブトは、英語でアコニット(aconite)という。ギリシャ語 akoniton から来た言葉で、語源辞典はもとの意味は分からないとしている。この毒草の生まれを語るのが、オウィディウスの『変身物語』である。ヘラクレスが冥界の番犬ケルベロスを地上へ引きずり出したとき、日の光を嫌がって暴れた犬は、三つの口で吠えながら白い泡を野に飛び散らせた。その泡が固まって、毒の力を持つ草になったという。硬い岩の上に根づいて生きるので、田舎の人はこれをアコニタと呼ぶ、とも詩は言う。この毒を使って、魔女メデイアはアテネに着いたばかりの若者テセウスを殺そうとし、父王が剣の柄の紋で息子と気づいて杯を払い落とした。
Kerberos(ケルベロス認証)MIT が開発したネットワーク認証の仕組み。利用者は鍵を管理するサーバーにアクセスして認証を受ける。MIT の Kerberos 公式サイトで公開されている解説対話劇(1988年)では、設計中のシステムを最初は冥界の渡し守の名でカロンと呼び、最後に女神アテナが「ギリシャの番犬だから、Kで始まる Kerberos」と改名する筋立てになっている。冥界の門番の名が、ネットワークの門番に使われた。
冥王星の衛星ケルベロスとヒドラ冥王星の第3衛星ヒドラ(ヒュドラ)と第4衛星ケルベロスは、どちらもギリシャ神話の怪物にちなむ名で、ハッブル宇宙望遠鏡によってそれぞれ2005年と2011年に発見された。冥界の番犬と、ヘラクレスが倒した水蛇が、同じ星のまわりを回っている。