『神統記』の「彼女はもう一つの怪物を産んだ」の「彼女」が誰かは、本文だけでは決まらない。この段落はポルキュスとケトの子らを語る流れの中にあり(最後に「これがケトとポルキュスの一族」と締めくくる)、その読み方ならエキドナはケトの娘で、グライアイやゴルゴンの姉妹になる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃

Ἔχιδνα怪物
上半身が女、下半身が蛇の尾のエキドナ。ボマルツォの怪物公園の石像。 『エキドナ(ボマルツォの怪物公園)』 作者不詳 写真は2019年 ボマルツォの怪物公園(イタリア)。写真 DaderotPublic domain
オーストラリアのハリモグラを、英語では「エキドナ」と呼ぶ。語源の辞典によれば、哺乳類なのか両生類なのか迷わせるような混じり合った姿が、ギリシャ神話のある怪物を思わせたからかもしれないという。上半身は美しい娘、下半身は巨大な蛇。多くの怪物の母、エキドナである。
では、「怪物たちの母」がどんなふうに語られてきたのか見ていこう。
『神統記』によれば、エキドナの半身は、目のきらきら輝く、頬の美しい娘だった。もう半身は、大地の奥深くに棲む、まだら模様の恐ろしい大蛇で、生の肉を食らった。神々からも人間からも遠く離れた岩の下の洞窟に住み、死ぬことも老いることもなかった。
エキドナの親が誰なのかは、はっきりしない。『神統記』の書き方では、どの女神の娘として語られているのか、読み方によって二通りに分かれてしまう。後の時代の神話集は、大地の女神と地の底の深淵とのあいだの娘だとしている。そうだとすると、夫となる怪物テュポンとは、両親を同じくする兄妹になる。
エキドナは、神々の王ゼウスに挑んだ最大の怪物テュポンと結ばれ、次々に怪物を産んだ。ある怪物の牛の群れを守る、双頭の犬。冥界の門を守る番犬ケルベロス。沼に棲む水蛇ヒュドラ。火を吐くキマイラ。同じ神話集によれば、テーバイの人々に謎をかけたスフィンクスも、この二人の娘だった。英雄ヘラクレスが立ち向かった怪物の多くが、この一家の出身である。
神話集は、エキドナの最期も伝えている。道行く人をさらって食べていたエキドナを、全身に目を持つ巨人が、眠っているところを襲って殺したという。
まったく違う話も残っている。歴史家ヘロドトスが黒海沿岸のギリシャ人から聞いた話では、英雄ヘラクレスが、凍える北の地で眠っているあいだに馬を見失った。探し回った末、森の洞窟で、腰から上は女、下は蛇という生き物に出会う。女は、馬は預かっている、でも私と寝てくれなければ返さない、と言った。ヘラクレスとのあいだに三人の息子が生まれ、末の息子が、黒海の北に住むスキタイ人の王たちの祖先になったという。
この物語の出典: ヘシオドス『神統記』、ヘロドトス『歴史』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
『神統記』の「彼女はもう一つの怪物を産んだ」の「彼女」が誰かは、本文だけでは決まらない。この段落はポルキュスとケトの子らを語る流れの中にあり(最後に「これがケトとポルキュスの一族」と締めくくる)、その読み方ならエキドナはケトの娘で、グライアイやゴルゴンの姉妹になる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
一方、この句の直前に出てくる女は、クリュサオルと交わってゲリュオンを産んだオケアノスの娘カッリロエ。文の上ではエキドナをカッリロエの娘と読むこともできる。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
アポロドロスは、エキドナを大地ガイアとタルタロスの娘とする。テュポンと同じ両親で、夫婦は兄妹ということになる。この書では、道行く人をさらっていたエキドナを、全身に目を持つ巨人アルゴスが眠っているところを襲って殺したとも伝える。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オーストラリアのハリモグラを英語で echidna と呼ぶのは1810年からで、キュヴィエが名づけたと言われる。ギリシャ語 ekhidna「蛇、蝮」から来た語で、etymonline は、哺乳類か両生類かと迷わせた混じり合った特徴から、上半身が女・下半身が蛇の神話のエキドナにちなんだ可能性を挙げる。ラテン語 echinus(ウニ、ハリネズミ)との関係を考える説もある。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
『神統記』では、半分は目のきらめく頬の美しいニンフ、半分は大地の奥深くに棲むまだらの恐ろしい大蛇で、生肉を食らう。神々からも人間からも遠く離れた岩の下の洞窟に住み、アリマの地下に閉じ込められている。不死で年をとらないニンフだともいう。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
『神統記』では、テュポンと交わって、ゲリュオンの番犬オルトス、五十の頭を持つ冥界の番犬ケルベロス、レルネのヒュドラを産む。そのあとの「彼女」が火を吐くキマイラを、さらにオルトスと交わってスピンクスとネメアの獅子を産むが、この「彼女」がエキドナなのか、その子の怪物なのかも本文では読み分けにくい。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ホメロスにエキドナは出てこない。『イリアス』はキマイラを「前は獅子、後ろは蛇、真ん中は山羊」と描くが、その母は語らない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ヘロドトスが伝える黒海沿岸のギリシャ人の話では、ヘラクレスがゲリュオンの牛を連れてスキュティアに来たとき、森の洞窟で、上半身は女、下半身は蛇の「半ば乙女の蝮」に出会う。彼女とのあいだに三人の息子が生まれ、末っ子スキュテスがスキュタイ人の王家の祖になった。
ヘロドトス『歴史』 前430年頃
ヘロドトスの伝えでは、スキュティアで眠るあいだに馬を失ったヘラクレスが森の洞窟で半ば乙女・半ば蛇の女に出会い、女は交わらなければ馬を返さないと言った。三人の息子が生まれ、ヘラクレスは弓と帯を残して、弓を引き帯を締められた子をこの地に住まわせよと言った。
ヘロドトス『歴史』 前430年頃
ハリモグラ / echidna卵を産むオーストラリアの哺乳類ハリモグラを英語で echidna と呼ぶのは1810年からで、キュヴィエが名づけたと言われる。ギリシャ語 ekhidna「蛇、蝮」から来ている。etymonline は、哺乳類か両生類かと初期の博物学者を迷わせた混じり合った特徴から、上半身が女で下半身が蛇という神話の怪物エキドナにちなんだ見方をより有力とする一方、ラテン語 echinus・ギリシャ語 ekhinos(ウニ、ハリネズミ)と結びつける説にも触れ、蛇を意味する語がこの動物に使われた理由ははっきりしないとしている。