ギリシャ神話の地図
アレス父アプロディテ母ハルモニア姉妹エリス戦場の連れアガメムノン盾の主テーバイ攻めの七将誓いの場

ポボスとデイモス

Φόβος神

火星には、小さな月が二つある。フォボスとダイモスだ。NASAによれば、どちらも1877年にアメリカの天文学者アサフ・ホールが見つけ、火星(マーズ)にあたるギリシャの軍神アレスの息子たちにちなんで名づけた。フォボスは「恐れ」、ダイモスは「おののき」を意味するという。

火星の衛星フォボス。2008年、NASAの探査機マーズ・リコネッサンス・オービターが撮影。
火星の衛星フォボス。2008年、NASAの探査機マーズ・リコネッサンス・オービターが撮影。『火星の衛星フォボス(カラー画像)』 NASA/JPL-Caltech/アリゾナ大学(HiRISE) 2008年3月23日撮影 NASAPublic domain

「コンピューターフォビア(コンピューター恐怖症)」のように、ほかの言葉の後ろについて恐れや嫌悪を表す「〜フォビア」にも、同じフォボスが隠れている。語源の辞書によれば、英語の phobia が単独の言葉として記録されるのは1786年からだ。

火星の月にも、恐怖症の名前にもなったこの神々は、もとはどんな存在だったのか。見ていこう。

ヘシオドスの『神統記』によれば、ポボスとデイモスは、愛と美の女神アプロディテが軍神アレスとのあいだに産んだ息子たちだった。二人はアレスとともに、冷たい戦場で男たちの密集した隊列を乱して追い散らす、恐ろしい神々だという。同じ両親から生まれた娘ハルモニアは、テバイの町を築いた英雄の妻になっている。

ホメロスの『イリアス』でも、二人は戦場に姿を見せる。トロイア軍をアレスが、ギリシャ軍をアテナがけしかけるとき、そこにはデイモスとポボスと、アレスの姉妹で仲間でもある争いの女神エリスがいた。息子を殺されて怒り狂ったアレスが、神々の禁を破って戦場へ向かおうとしたときには、デイモスとポボスに馬を戦車につながせている。

別の場面では、アレスが戦いに出ると、その愛する息子ポボスが付き従う、と描かれる。強くて恐れを知らず、どんなに肝のすわった戦士でも逃げ出させてしまう息子だ、と。総大将アガメムノンの盾の真ん中には、恐ろしい目でにらむゴルゴンの顔があり、そのまわりにデイモスとポボスが描かれていた。

実は、ホメロスの中の「ポボス」という言葉は、「恐れ」ではなかった。語源の辞書によれば、この言葉のもとの意味は「逃げ出すこと」で、ホメロスではその意味でしか使われていない。戦場で兵が背を向けて逃げ出す総崩れ、それがポボスだった。英語に訳された『イリアス』の中には、この神を「Rout(敗走)」と訳しているものもある。

悲劇の中でも、この神は血のにおいをまとう。アイスキュロスの『テバイ攻めの七将』では、町に攻め寄せた7人の将が、黒い盾の上で牡牛をほふり、その血に手をひたし、アレスと戦いの女神エニュオと、血を好むポボスにかけて誓う。町を落とすか、死んで自分たちの血でこの土地を染めるか、と。

一方、スパルタの人々は、この恐れの神に神殿を建てていた。プルタルコスによれば、スパルタには死や笑いの神殿と並んで、恐れの神殿があった。恐れを祀ったのは、それを災いとして遠ざけたいからではない。法を恐れる心こそが国を支える一番の柱だ、と考えていたからだという。

軍神のそばを離れず、戦場を駆けた二人の息子。その名をもらった二つの月は、いまも火星のまわりを回り続けている。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、アイスキュロス『テーバイ攻めの七将』、プルタルコス『対比列伝(英雄伝)』、アメリカ航空宇宙局『NASA公式サイト』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』、小学館『デジタル大辞泉』

この物語の人々

ローマ以後の語り

プルタルコスによれば、スパルタ人は死や笑いの神殿と並んで恐れ(ポボス)の神殿を持っていた。恐れを祀るのは、それを有害なものとして退けたいからではなく、恐れこそが国の秩序を最も支えるものと考えたからだという。

プルタルコス『対比列伝(英雄伝)』 2世紀初頭

火星の二つの衛星は、1877年にアサフ・ホールが発見した(ダイモスが8月11日、フォボスが8月17日)。ホールはこれを、ローマのマルスにあたるギリシャの軍神アレスの息子たちの名で呼んだ。NASA はフォボスを「恐れ」、ダイモスを「おののき(dread)」の意と説明する。

アメリカ航空宇宙局『NASA公式サイト』 1958年〜(2026年9月閲覧)、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)

もっと詳しく

『神統記』では、キュテレイア(アプロディテ)が盾を貫くアレスに「ポボス(敗走)」と「デイモス(恐怖)」を産む。二人は、町を荒らすアレスとともに、冷たい戦場で男たちの密集した隊列を乱して追い散らす恐ろしい神々。同じ両親から、カドモスの妻となるハルモニアも生まれる。

ヘシオドス『神統記』 前700年頃

『イリアス』では、トロイア勢をアレスが、アカイア勢をアテナがけしかけ、そこにデイモスとポボスと、アレスの姉妹で仲間の、たゆまず荒れ狂うエリスが加わる。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

『イリアス』は、戦に出るアレスに「その愛する息子ポボス」が付き従い、強く恐れを知らず、どんな剛の者も逃げ出させる、と描く。息子アスカラポスの死を聞いたアレスは、デイモスとポボスに馬をつながせて戦場へ向かおうとする。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

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アガメムノンの盾の中央には恐ろしい目でにらむゴルゴンが飾られ、そのまわりにデイモスとポボスがいた。アテナのアイギスのまわりにはポボスが冠のようにめぐらされている。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

ギリシャ語 phobos の原義は「逃げ出すこと」で、ホメロスではこの意味でしか使われない。のちに「恐れ、恐慌、恐怖の対象」の意味になった。動詞 phobein は「敗走させる、おびえさせる」。英訳の『イリアス』(マリー訳)は、神としてのポボスを Rout(敗走)、デイモスを Terror と訳している。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)

アイスキュロスの『テバイ攻めの七将』では、テバイを攻める7人の将が黒縁の盾の上で牡牛をほふり、その血に手を触れて、アレス、エニュオ、そして血を好むポボスにかけて、町を落とすか死んでこの地を血で染めるかと誓う。

アイスキュロス『テーバイ攻めの七将』 前467年上演

今の言葉に残る

フォビア / 恐怖症 / phobia英語 phobia(単独の語としては1786年から)は、ギリシャ語 phobos から来ている。phobos は「恐れ、恐慌、恐怖の対象」を意味するが、もとの意味は「逃げ出すこと」で、ホメロスではこの意味でしか使われない。これを神格化したのが、軍神アレスの息子ポボス。日本語では「〜フォビア」がほかの語の後ろについて恐怖感や嫌悪感を表し、「コンピューターフォビア(コンピューター恐怖症)」のように使われる。火星の衛星フォボスも同じ神の名から。

フォボスとダイモス(火星の衛星)/ Phobos, Deimos火星には、フォボスとダイモスという小さな衛星が二つある。NASAによれば、どちらも1877年8月にアメリカの天文学者アサフ・ホールが見つけ、火星の名のもとになったローマの軍神マルスにあたるギリシャの神アレスの、神話の息子たちの名を付けた。フォボスは「恐れ」、ダイモスは「おののき」の意味である。『イリアス』では、息子を殺されて怒ったアレスが、この二人に命じて自分の戦車に馬をつながせる。軍神の供をする二人が、そのまま火星のまわりを回っているわけだ。フォボスでいちばん目立つ大きなクレーターには、ホールの妻で数学者のクロエ・アンジェリーン・スティックニー・ホールの名が付いている。JAXAの火星衛星探査計画MMXは、このフォボスに降りて表面の試料を採り、地球へ持ち帰ることを目指している。

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このページの出典(6件)
  1. 前8世紀頃ホメロス『イリアス』
  2. 前700年頃ヘシオドス『神統記』
  3. 前467年上演アイスキュロス『テーバイ攻めの七将』
  4. 2世紀初頭プルタルコス『対比列伝(英雄伝)』
  5. 1958年〜(2026年9月閲覧)アメリカ航空宇宙局『NASA公式サイト』
  6. 2001年〜(2026年9月閲覧)ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』