『イリアス』でヘラはオケアノスを「神々の起源」、テテュスを「母」と呼ぶ。ホメロスではオケアノスとテテュスの夫婦が、神々の始まりに置かれているとも読める。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

Τηθύς神
貝の車に乗る海の女神テテュス。ゴルツィウスの連作「神々」より。 『貝の車に乗るテテュス(連作「神々」より)』 ヘンドリック・ホルツィウス 1588〜90年 メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)
北の空の大熊の七つの星は、海の下に沈むことがない。ローマの詩人オウィディウスは、その理由をひとりの老いた女神に結びつけた。海の果てに住む女神テテュスである。
テテュスは、天と大地のあいだに生まれた古い神々、ティタン族の女神である。夫は、世界のまわりをぐるりと取り巻いて流れる大河の神オケアノス。二人のあいだには、世界中の川と、3000人の娘たちが生まれた。エジプトのナイル川も、トロイアの川も、神々が誓いを立てる冥界の川ステュクスも、二人の子どもだ。
『イリアス』では、テテュスはゼウスの妻ヘラの育ての親として出てくる。ゼウスが父クロノスを地の底へ追い落とした戦いのあいだ、幼いヘラは母の手からテテュスとオケアノスに預けられ、その館で大切に育てられた。
ヘラはこの養い親を、夫をだます口実に使ったことがある。愛の女神アプロディテから恋心を呼び起こす帯を借りるとき、ヘラはこう言った。育ての親の二人が、長いこと仲たがいして床を共にしていない。仲直りをさせに、世界の果てまで行くのです、と。本当の目的は、ゼウスを誘惑して眠らせることだった。

オウィディウスの話に戻ろう。ゼウスは、狩りの女神に仕える娘を愛し、その娘は熊の姿に変えられたのち、星座として天に上げられた。夫の恋の相手が夜空で輝くのが、ヘラには許せない。ヘラは養い親のテテュスと老いたオケアノスのもとへ下り、頼んだ。育てた娘の恨みを思ってくれるなら、あの七つの星を青い海に入れないでほしい。汚れた女が清い海で身を洗うことのないように。海の神々はうなずいた。それ以来、この熊の星は海に沈まないのだという。

名前がよく似た海の女神テティスは、英雄アキレウスの母で、テテュスとは別の女神である。系図をたどると、テテュスはテティスの祖母にあたる。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、オウィディウス『変身物語』
『イリアス』でヘラはオケアノスを「神々の起源」、テテュスを「母」と呼ぶ。ホメロスではオケアノスとテテュスの夫婦が、神々の始まりに置かれているとも読める。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
オウィディウスでは、夫の愛人カリストが大熊座として天に上げられたことに怒ったユノが、かつての養い親テテュスと老オケアノスのもとへ下り、熊が海で身を洗うのを禁じてほしいと頼む。二神はうなずき、北斗の星は海に沈まなくなった、という星座の由来譚。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
『神統記』でウラノスとガイアの子らの最後のほうに「愛らしいテテュス」が挙がる。ティタンの女神(ティタニス)の一柱。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
テテュスはオケアノスに、ナイルやスカマンドロスなどの川と、ステュクス、メティスなど三千人の娘(オケアニス)を産む。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
ヘラは、クロノスが地下に落とされたときにオケアノスとテテュスに預けられて育ったと語り、長く床を共にしていない二人の不和を仲裁しに行くと言ってゼウスを欺く。実際はゼウスを眠らせるための口実。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
テテュス(Τηθύς)とテティス(Θέτις)は別の女神。テティスはネレウスとドリスの娘で、ドリスはオケアノスとテテュスの娘なので、テテュスはテティスの祖母にあたる。日本語のカナでは一文字違いになり、取り違えが起きやすい。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
オケアノスとテテュスの間には、川の神々と、3000人の細い足首のオケアニスたちが生まれた。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃
テティス(土星の衛星)/ Tethys土星の衛星テティス(テテュス)は、1684年に天文学者カッシーニが見つけた。名は、海の神オケアノスの妻で、世界の川の母とされるティタンの女神テテュスから。アキレウスの母テティスとは別の女神である。表面の地形には、主に『オデュッセイア』の人物や場所の名が付けられている。さらにこの衛星には、同じ軌道を前後に60度ずつ離れて回る小さな衛星が2つあり、後ろを追うほうには、オデュッセウスを島に引き留めた女神カリュプソの名が付いている。
テチス海 / Tethys Seaテチス海は、はるか昔、北の大陸と南の大陸のあいだに広がっていた海の名である。辞書によると、古生代の終わりから新生代にかけて存在し、今の地中海のあたりからヒマラヤを経て東南アジアまで続いていた。アルプスやヒマラヤの山々の地層からは、そのころの生き物の化石が出る。名付けたのはドイツの地質学者ジュースで、1893年のこと。海の神オケアノスの姉妹であり妻でもある、ギリシャ神話の海の女神テテュスの名を借りた。