『アエネイス』で、アイネイアスはブトロトゥム近くの森で、空の墓の前でヘクトルの霊を呼んで供物を捧げるアンドロマケに出会う。彼女は、ネオプトレモスがヘルミオネと結婚するために自分をヘレノスに譲ったと語る。別れにはアスカニウスに手織りの衣を贈り、アステュアナクスの面影を見る。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃

Ἀνδρομάχη人間
出陣するヘクトルと、妻アンドロマケ、幼い息子の別れ。ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバインの作。 『ヘクトルとアンドロマケの別れ』 ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン 1812年Public domain
戦場へ戻る夫が、幼い息子を抱き上げようと腕を伸ばした。ところが子は泣き出して、乳母の胸にしがみつく。父の兜の上で揺れる馬の毛の房飾りが、恐ろしかったのだ。父と母は声を上げて笑った。夫は兜を脱いで地面に置き、あらためて息子に口づけした。『イリアス』の一場面である。このとき、涙を浮かべながら笑った母がアンドロマケだ。
では、トロイアの総大将の妻アンドロマケが、どんな運命をたどったのか、見ていこう。
アンドロマケは、トロイアの近くの町の王の娘として生まれ、トロイアの王子ヘクトルに嫁いだ。ところが戦争が始まると、実家の町は英雄アキレウスに攻め落とされる。父は殺され、7人の兄弟も一日のうちにみな討たれた。母も、身代金で解放されたあと亡くなった。だからアンドロマケは夫に言う。あなたが私の父であり、母であり、兄弟であり、そして夫なのです、と。
城門の近くで夫をつかまえた彼女は、城壁の外で戦わないでほしいと頼んだ。敵が何度も攻め寄せてくる無花果の木のそばの城壁、あそこを守っていれば十分だ、と戦い方まで具体的に示して。ヘクトルは聞き入れなかった。戦わずに引っ込んでいては、トロイアの人々に顔向けできない。そして、いつかトロイアが落ち、妻が敵に連れていかれる日を思うと、何よりもつらいと打ち明けた。
その日、アンドロマケは館の奥で機を織っていた。紫の布に色とりどりの花を刺繍しながら、侍女たちに、夫が戦から戻ったら湯を使えるよう大きな鼎を火にかけさせていた。そこへ、城壁の上から悲鳴が聞こえてくる。手から杼が落ちた。城壁に駆け上がった彼女が見たのは、アキレウスの戦車に引きずられていく夫の亡骸だった。アンドロマケは気を失い、結婚の日に愛の女神から贈られた髪飾りが、頭から落ちた。
夫の葬儀で、アンドロマケは嘆いた。父を失った子はこれからどうなるのか。町が落ちれば、敵の誰かがこの子を城壁から投げ落とすだろう。『イリアス』は、その予感を口にしたところで終わる。

予感は現実になった。アテネの悲劇作家エウリピデスが描いた落城のあとの劇では、ギリシャ軍が幼い息子を母の手から奪い、城壁から投げ落とす。アンドロマケ自身は、夫を殺したアキレウスの息子のもとへ、戦利品として連れていかれた。
その後の彼女を、ローマの詩人ウェルギリウスが描いている。トロイアから逃れてきた英雄アイネイアスは、ギリシャ北西部の町で、思いがけずアンドロマケに再会した。彼女は町の外の森で、空の墓の前にヘクトルの霊を呼び、供え物をしていた。アキレウスの息子は、ヘレネの娘を妻に迎えるために彼女を手放し、同じく捕らわれの身だったトロイアの王子ヘレノスに譲った。アンドロマケはヘレノスの妻となり、二人はその地に小さなトロイアを築いていたのである。
別れ際、アンドロマケはアイネイアスの幼い息子に、自分で織った衣を贈った。あなただけが、あの子の面影を残している。目も、手も、顔つきも。生きていれば、今ごろあなたと同じ年ごろだったのに。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、レスケス(伝)『小イリアス』、エウリピデス『アンドロマケ』、エウリピデス『トロイアの女』、ウェルギリウス『アエネイス』
『アエネイス』で、アイネイアスはブトロトゥム近くの森で、空の墓の前でヘクトルの霊を呼んで供物を捧げるアンドロマケに出会う。彼女は、ネオプトレモスがヘルミオネと結婚するために自分をヘレノスに譲ったと語る。別れにはアスカニウスに手織りの衣を贈り、アステュアナクスの面影を見る。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
父エエティオンと七人の兄弟はアキレウスに殺され、母も身代金で戻ったのち死んだ。「あなたが私の父であり母であり兄弟です」とヘクトルに言う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『イリアス』第6歌で、城壁の外へ出ずイチジクの木のあたりを守るようヘクトルに具体的な戦術まで示して訴えるが、聞き入れられない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ヘクトルの葬儀での嘆きで、父を失った子の行く末を語り、街が落ちればアカイア勢の誰かが息子を城壁から投げ落とすだろうと予感する。『イリアス』はここまでで、実際に殺される場面は描かない。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
落城後はアキレウスの子ネオプトレモスの取り分となる。エウリピデス『トロイアの女』では、息子を奪われる場面とともに描かれる。
レスケス(伝)『小イリアス』 前7世紀頃、エウリピデス『トロイアの女』 前415年
その後の生は出典で異なる。エウリピデス『アンドロマケ』ではネオプトレモスとの間に息子を産んでおり、劇の最後にテティスが、その子の血統がモロッソイの地を治めると予言し、アンドロマケはヘレノスと結ばれると告げる(劇中でこの子がモロッソスと名指されることはない)。『アエネイス』ではヘレノスの妻としてエペイロスに小さなトロイアを再現している。
エウリピデス『アンドロマケ』 前425年頃、ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
ヘクトルが息子を抱こうとすると、子は兜の馬毛の房飾りを怖がって乳母の胸に泣きついた。父と母は笑い、ヘクトルは兜を脱いで地に置き、息子に口づけしてゼウスに祈った。アンドロマケは涙のうちに笑って子を受け取った。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ヘクトルの死を知らないアンドロマケは館の奥で紫の布に花を織り込み、夫の湯のために鼎を火にかけさせていた。城壁からの悲鳴に杼を取り落とし、駆けつけて亡骸が引きずられるのを見て気を失い、結婚の日にアプロディテから贈られた頭の飾りを落とした。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
6.407-439 夫に城壁の外で戦うなと訴える
捕虜として分配される