『アエネイス』のシノンは、後ろ手に縛られて羊飼いたちにプリアモスの前へ引き出される。自分から捕まりに来た男で、欺きとおすか死ぬか、どちらにも覚悟ができていた。オデュッセウスに憎まれ、帰国の生贄にされかけて逃げてきたと涙ながらに語り、木馬は女神の怒りを鎮める奉納物で、城内に入れればトロイアがギリシャに攻め込めると信じ込ませる。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
Σίνων人間
「トロイの木馬」の計略は、木馬だけでは成り立たなかった。巨大な木馬を、敵が自分の手で城の中へ運び込まなければ意味がない。トロイアの人々にそうさせたのは、ひとりのギリシャ人の、涙まじりの作り話だった。その男の名はシノン。
では、嘘ひとつでトロイアの門を開かせたシノンの物語を、ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネイス』でたどってみよう。
10年の戦いの末、ギリシャ軍は浜に巨大な木馬を残し、船に乗って姿を消した。トロイアの人々は、敵が国へ引き上げたのだと思って、城門から浜へあふれ出た。そこへ羊飼いたちが、後ろ手に縛った若者を引きずってきた。シノンである。
実はシノンは、自分から捕まりに来たのだった。嘘をつき通すか、殺されるか。どちらになっても構わない覚悟を決めていた。
人々に囲まれたシノンは、嘆いてみせた。ああ、私を受け入れてくれる陸も海も、もうどこにもない。ギリシャ軍には居場所がなく、トロイアの人々は私の血を求めている。
王プリアモスが縄を解かせ、身の上を尋ねると、シノンは語りはじめた。自分は、英雄オデュッセウスの謀略で殺されたある男の身内で、そのためにオデュッセウスに憎まれていた。ギリシャ軍が帰ろうとしたとき、神託が告げた。来るときに娘を生贄にして風を鎮めたように、帰るにも血が要る。オデュッセウスは予言者を引きずり出して迫り、予言者は10日黙り込んだ末に、とうとう私を生贄に指名した。私は縄を切って逃げ出し、沼の葦の陰に隠れて、船が去るのを待っていたのだ、と。
では、あの木馬は何なのか。シノンは言った。あれは女神アテナへの捧げ物だ。ギリシャ軍が女神の像を盗んで女神を怒らせたので、その償いに造ったのだ。わざと大きく造ったのは、城門を通れないようにするためだ。もしお前たちが木馬を傷つければ、トロイアは滅びる。だが自分たちの手で城内に運び込めば、いつかアジアの軍勢がギリシャへ攻め込むことになるだろう。
ちょうどそのとき、木馬を疑って槍を突き立てていた祭司ラオコオンが、海から現れた二匹の大蛇に、息子たちとともに絞め殺された。人々は、女神が怒ったのだと信じ込んだ。城壁の一部が崩され、木馬は歓声とともに城内へ引き入れられた。

その夜、静かな月の下を、ギリシャの船団が島陰から戻ってきた。王の船から合図の火が上がると、シノンはひそかに木馬の閂を外し、腹に隠れていた兵たちを外へ出した。英雄アイネイアスは、のちにこう語っている。名だたる猛将もアキレウスも、10年の戦いも千隻の船も落とせなかった町を、偽りの誓いと作り涙が落とした。
ほかの伝えでは、シノンの役目は、城の中から合図の火を上げることだった。アポロドーロスは、その火を焚いた場所をアキレウスの墓の上としている。
この物語の出典: アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』、レスケス(伝)『小イリアス』、ウェルギリウス『アエネイス』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、クイントゥス・スミュルナイオス『ホメロス後日譚(ポストホメリカ)』、ダンテ・アリギエーリ『神曲 地獄篇』
『アエネイス』のシノンは、後ろ手に縛られて羊飼いたちにプリアモスの前へ引き出される。自分から捕まりに来た男で、欺きとおすか死ぬか、どちらにも覚悟ができていた。オデュッセウスに憎まれ、帰国の生贄にされかけて逃げてきたと涙ながらに語り、木馬は女神の怒りを鎮める奉納物で、城内に入れればトロイアがギリシャに攻め込めると信じ込ませる。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
スミュルナのコイントスでは、シノンは自分から志願して残る。トロイア人は本当のことを言わせようと耳と鼻を削ぎ、火で責めるが、ヘラに忍耐を吹き込まれたシノンは同じ作り話を繰り返し続ける。
クイントゥス・スミュルナイオス『ホメロス後日譚(ポストホメリカ)』 3〜4世紀
シノンは身の上話の最初に、オデュッセウスに陥れられて殺されたパラメデスの親族だと名乗る。ギリシャ勢の中で実際にあった恨みを持ち出して、嘘に本当らしさを持たせている。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
アイネイアスは語る。ディオメデスもアキレウスも、10年の戦いも千隻の船も落とせなかった町を、偽りの誓いと作り涙が落とした、と。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
ダンテ『神曲』地獄篇では、シノンは「トロイアの偽りのギリシャ人」として、ヨセフを偽って訴えたポティファルの妻と並んで地獄に置かれている。高熱で湯気を立てて横たわり、隣の贋金造りと罵り合う。
ダンテ・アリギエーリ『神曲 地獄篇』 14世紀初頭
シノンの作り話では、帰国の風を得るには血が要るとの神託があり、オデュッセウスに迫られたカルカスが10日黙った末にシノンを生贄に指名した。シノンは縄を切って逃れ、沼の葦に隠れていたという。木馬はパラディオン(女神の像)を奪った償いの奉納物で、わざと大きく造ったのは城門を通れないようにするためだと説明する。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
シノンの本当の役目は、夜になって合図の火を上げることだった。叙事詩環の『イリオスの陥落』要約では「先に偽って城内に入っていた」シノンが火の合図を上げ、アポロドロスはそれをアキレウスの墓の上でとする。ウェルギリウスでは、シノンが木馬の閂を外して中の兵を出す役も担う。
アルクティノス(伝)『イリオスの陥落』 前7世紀頃、ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃