何夜目かに明かりを持ち込んだキニュラスが娘だと知って剣を抜くと、ミュラは闇にまぎれて逃げ、アラビアとパンカイアを越えて9か月さまよい、サバの地で力尽きる。「生きる者も死者も汚さないよう、どちらの国からも締め出して、姿を変えて生も死も拒んでほしい」と祈ると、足は根に、骨は幹に、血は樹液に変わった。木になっても泣き続け、その温かい滴が没薬(ミルラ)で、持ち主の名をとどめて永遠に語られる、と詩人は言う。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
Μύρρα人間
没薬、英語でミルラと呼ばれる香り高い樹脂がある。アラビアやエチオピアの木から採れ、古くから香や香水に使われてきた。ローマの詩人オウィディウスは、この樹脂を、木に変えられた一人の娘の涙だと書いた。娘の名はミュラ。
では、禁じられた恋の末に木になった娘ミュラの物語を、オウィディウスの語りでたどってみよう。
この話を歌うのは、竪琴の名手オルペウスである。彼は歌い出す前に、こう断っている。これから恐ろしいことを歌う。娘たちよ、父親たちよ、ここから離れていてほしい。もし聞くのなら、信じないでほしい。信じるなら、その罰の話まで信じること。恋の神でさえ、この恋は自分の矢のせいではないと言う。娘の心に毒を吹き込んだのは、復讐の女神だった、と。
ミュラは、キュプロス島の王の娘だった。東方じゅうから若者たちが求婚に来た。父が、どんな夫がよいかと尋ねると、娘は答えた。お父様に似た人を。父はその言葉の意味に気づかず、親思いの娘だとほめた。けれども娘は、自分の父に恋をしていたのである。
恋を恥じたミュラは、その夜、帯で首を吊ろうとした。気づいた年老いた乳母がわけを聞き出し、あろうことか、手を貸すと言い出した。女神デメテルの祭りのあいだ、母の王妃が9夜のあいだ夫と床を別にする時期がやって来た。乳母は、酒に酔った王に、名を伏せたまま若い娘を引き合わせた。
何夜目かに、王は明かりを持ち込み、相手の顔を見た。それが自分の娘だと知った王は、剣を抜いた。ミュラは闇にまぎれて逃げた。
身ごもったまま、ミュラは9か月のあいださまよい続けた。ヤシの茂る土地を越え、香料の国を越えて、疲れ果てた末に、神々に祈った。私は生きている者も、死んだ者も汚したくない。生の国からも死の国からも締め出して、姿を変え、生も死も拒ませてください。
祈りは聞き届けられた。足は根になって大地に伸び、骨は木の幹に、血は樹液に変わった。木になっても、ミュラは泣き続けた。幹からしたたる温かい滴が、没薬である。
おなかの子は、木の中で育っていた。声の出せない木は、お産の女神を呼ぶこともできない。それでも木は身をよじり、うめき、涙をこぼした。あわれに思った女神が枝に手を当てて祈ると、幹が裂けて、赤ん坊が泣き声を上げた。川のニンフたちは、母の涙で赤ん坊に香油を塗った。この子が、のちに愛の女神アプロディテに愛される美少年アドニスである。

もっと古い伝えでは、娘の名はスミュルナ。愛の女神を敬わなかった罰として父に恋をさせられ、剣を持った父に追われて、神々に木に変えられたという。
この物語の出典: オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
何夜目かに明かりを持ち込んだキニュラスが娘だと知って剣を抜くと、ミュラは闇にまぎれて逃げ、アラビアとパンカイアを越えて9か月さまよい、サバの地で力尽きる。「生きる者も死者も汚さないよう、どちらの国からも締め出して、姿を変えて生も死も拒んでほしい」と祈ると、足は根に、骨は幹に、血は樹液に変わった。木になっても泣き続け、その温かい滴が没薬(ミルラ)で、持ち主の名をとどめて永遠に語られる、と詩人は言う。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
アポロドーロスが引く前5世紀の叙事詩人パニュアシスの形では、娘の名はスミュルナ、父はアッシリア王テイアス。アプロディテを敬わなかった罰で父に恋し、乳母の手引きで12夜をともにした。剣を持った父に追いつかれかけて「見えなくして」と祈り、神々があわれんでスミュルナ(没薬)の木に変えた。10か月後に木が裂けてアドニスが生まれた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスの語り手オルペウスは、この話の前に「恐ろしいことを歌う。娘たちよ、父親たちよ、ここから離れよ。聞くなら信じるな、信じるなら罰も信じよ」と前置きする。さらに、こんな罪を生んだ遠い国ではなく自分の土地に生まれたことを喜び、あの地は没薬を生む木を得たが、それほどの値打ちはなかった、と言う。恋の神クピドも自分の矢のせいではないと否定し、ミュラの心に毒蛇をまとわせたのは復讐の三姉妹の一人だとされる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
東方じゅうの若者が求婚に来て、父にどんな夫がよいかと聞かれたミュラは「あなたに似た人」と答える。父はその意味に気づかず娘の孝心をほめ、ミュラはその夜、帯で首を吊ろうとする。気づいた年老いた乳母がわけを聞き出し、ケレス(デメテル)の祭で母ケンクレイスが9夜のあいだ夫と床を別にしている時期に、酒に酔ったキニュラスに娘の名を伏せて若い娘を引き合わせた。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
オウィディウスでは、身重の木は裂けることもできず、声を出せないので出産の女神ルキナを呼ぶこともできない。それでも木は身をよじってうめき、涙をこぼした。あわれんだルキナが枝に手を当てて出産の言葉を唱えると、幹が割れて赤子が泣き声を上げた。ナイアスたちは母の涙(没薬)で赤子に油を塗った。この子がアドニスになる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
没薬(英語 myrrh)はアラビアやエチオピアの植物から出る香り高い樹脂で、香や香料に使われた。語はラテン語 myrrha、ギリシャ語 myrrha を経て、アッカド語 murru、ヘブライ語 mor、アラビア語 murr などセム語の「苦い」を意味する語根にさかのぼる。ミュラ(スミュルナ)の神話は、東方から入ってきたこの香料の由来譚になっている。
オウィディウス『変身物語』 8年頃、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
ミルラ(没薬) / myrrhアラビアやエチオピアの植物から出る香り高いゴム状の樹脂で、香や香料に使われた。英語 myrrh は古英語 myrre・古フランス語 mirre からで、ラテン語 myrrha、ギリシャ語 myrrha を経て、アッカド語 murru、ヘブライ語 mor、アラビア語 murr など「苦い」を意味するセム語の語根にさかのぼる。古典的な綴りに戻ったのは16世紀。ギリシャ神話では、父への恋の罰で木に変わったミュラ(スミュルナ)の涙がこの樹脂だとされる。