親は出典で割れる。アポロドーロスによれば、ヘシオドスはアドニスをポイニクス(フェニキアの名祖)とアルペシボイアの子とした。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

Ἄδωνις人間
狩りに出ようとするアドニスと、引き止める愛の女神。ルーベンスの絵。 『ウェヌスとアドニス』 ピーテル・パウル・ルーベンス 17世紀前半 メトロポリタン美術館Public domain
春に咲く花、福寿草。学名でいうとアドニスの仲間だ。英語では17世紀から、アドニスといえば「美青年」のことを指すようになった。どちらも、愛の女神アプロディテに愛された一人の若者の名前から来ている。
その若者の短い一生を、生まれる前から順に追ってみよう。
アドニスの生まれ方は、とても奇妙だ。ローマの詩人オウィディウスによれば、母は東方の王の娘で、父親に道ならぬ恋をしてしまう。夜の闇に紛れて父のもとへ通った娘は、正体を知られて剣で追われ、逃げ延びた末に神々に祈って一本の木に変えられた。木の幹からにじむ涙のようなしずくは、今も娘の名で呼ばれている。没薬、ミルラである。
木になった母の腹には、子が宿っていた。やがて幹が裂け、中から赤ん坊が生まれる。その子の美しさは、絵に描かれる愛の神々の子どもたちとそっくりだった、とオウィディウスは書く。

この赤ん坊をめぐって、二人の女神が争った。後の神話集によると、美しい赤子に目をつけたアプロディテは、彼を箱に隠して冥界の女王ペルセポネに預けた。ところがペルセポネも赤子を気に入り、返そうとしない。ゼウスが裁いて一年を三つに分けた。三分の一はひとりで、三分の一はペルセポネのもとで、残りはアプロディテのもとで過ごすこと。アドニスは、自分の取り分もアプロディテのそばで過ごした。
オウィディウスでは、恋の始まりは事故だった。息子のエロスがうっかり矢で母の胸をかすめてしまい、アプロディテは若者に夢中になる。好きだった島々にも、天上にも寄りつかなくなった。狩りの女神のように裾をからげ、若者と一緒に野山を駆け回る。ただし獲物は、兎や鹿のような逃げる動物だけ。女神は若者に言い聞かせた。猪や獅子のような、牙や爪を持つ獣には決して手を出してはいけない、と。

若者は忠告を聞かなかった。女神が白鳥の車で空へ去ったあと、犬が猪を茂みから追い出す。若者の槍はかすっただけで、怒った猪は逃げる若者を追い、牙を深々と突き立てた。
遠くで死にゆく声を聞きつけた女神は、車を返して舞い降り、衣を裂き、胸を打って嘆いた。そして誓う。私の嘆きは毎年くり返されて、記念として残るだろう、と。若者の血に香り高い神酒を注ぐと、一時間もたたないうちに、ザクロのように赤い花が咲いた。けれどもその花ははかなく、すぐに風に花びらを散らされてしまう。風にちなんで名づけられた花、アネモネの由来として読まれてきた一節だ。
女神の誓いどおり、アドニスの死は毎年悼まれた。最も古い記録は前600年ごろの女性詩人サッポーの断片で、娘たちが、やさしいアドニスが死にかけている、どうしたらいいのかと問うと、女神は、胸を打ち、衣を裂きなさい、と答えている。ギリシャでは、物語が知られるより前に、死を悼む祭りとしてこの若者が現れていた。
この物語の出典: サッポー『断片』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』、地球規模生物多様性情報機構(GBIF)『GBIF 生物分類データ(GBIF Backbone Taxonomy)』
親は出典で割れる。アポロドーロスによれば、ヘシオドスはアドニスをポイニクス(フェニキアの名祖)とアルペシボイアの子とした。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
前5世紀の叙事詩人パニュアシスの説では、アッシリア王テイアスの娘スミュルナが、アプロディテを敬わなかった罰として父に恋し、乳母の手引きで12夜をともにする。気づいた父に剣で追われ、神々に祈って木に変えられた。これがスミュルナ(没薬、ミルラ)の木で、10か月後に木が裂けてアドニスが生まれた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスは同じ筋を、キュプロス王キニュラスとその娘ミュラの話として語る。キニュラスはピュグマリオンと彫像の女の孫にあたり、オルペウスが歌う一連の物語の中で、ピュグマリオン→キニュラスとミュラ→アドニスと、三代の話が続けて語られる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
アポロドーロスは別の箇所で、キプロスのパポスを建てたキニュラスが、キプロス王ピュグマリオンの娘メタルメを妻とし、その子の一人がアドニスだった、という系譜も載せている。同じ本の中で、アドニスの親が二通りに書かれていることになる。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アポロドーロスによれば、美しい赤子に目をつけたアプロディテが彼を箱に隠してペルセポネに預けたが、ペルセポネも気に入って返さない。ゼウスが裁いて1年を3つに分け、3分の1はひとりで、3分の1はペルセポネのもとで、3分の1はアプロディテのもとで過ごすよう命じた。アドニスは自分の取り分もアプロディテのもとで過ごした。冥界と地上を行き来する、ペルセポネに似た季節の神の姿が見える。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスの形: アプロディテ(ウェヌス)は獅子や猪のような獣には近づくなと忠告するが、アドニスは猪を追い、牙に突かれて死ぬ。女神は彼の血にネクタルを注ぎ、ザクロのような赤い花を咲かせた。その花ははかなく、「名を与える風」に花びらを散らされる、と結ばれる。ギリシャ語で風は anemos で、アネモネの由来譚として読まれている。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
英語 Adonis が「美青年」を意味するようになったのは1620年代から。語源はフェニキア語 adon(主)で、ヘブライ語で神の名の代わりに唱えられる Adonai と同系とされる。植物では、日本の春の花フクジュソウ(福寿草)が同じ名の属 Adonis(キンポウゲ科)に分類される。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)、地球規模生物多様性情報機構(GBIF)『GBIF 生物分類データ(GBIF Backbone Taxonomy)』 2026年9月閲覧
オウィディウスでは、エロスの矢に胸をかすられたウェヌス(アプロディテ)はアドニスに夢中になり、キュテラやパポスにも天上にも寄りつかず、ディアナのように裾をからげて狩りに付き添う。獲物は兎や鹿などに限り、猪・狼・熊・獅子には近づくなと忠告する。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
アドニスの死に際して、ウェヌスは「私の嘆きの記念は永遠に残り、死の姿が毎年くり返されて嘆きが演じられるだろう」と誓う。毎年の哀悼祭を物語の側から説明した一節。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
ホメロスとヘシオドスの叙事詩本文にはアドニスは登場しない。最も古い言及は前600年頃のサッポーの断片で、「キュテレイア(アプロディテ)よ、やさしいアドニスが死にかけている、どうしよう」と問う乙女たちに、女神が胸を打ち衣を裂いて嘆けと答える。物語よりも先に、死を悼む儀礼として現れる。
サッポー『断片』 前600年頃
アドニス(美青年のたとえ)/ フクジュソウ属 Adonis英語で Adonis を「美青年」の意味で使うのは1620年代から。フランス語 Adonis を経て、アプロディテに愛された少年の名に由来する。その名はさらにフェニキア語 adon(主)にさかのぼるとされ、ヘブライ語 Adonai と同系。植物の属名 Adonis(キンポウゲ科)もこの名で、日本のフクジュソウ(Adonis ramosa ほか)はこの属に入る。オウィディウスではアドニスの血から咲く花は、風に散らされるはかない赤い花とされる(『変身物語』10.735-739)。
アネモネ / anemone春の花アネモネの名は、ギリシャ語で「風の娘」、つまり風の花という意味になる。語源辞典は、風が吹くときだけ開くと考えられたからという説明を紹介している。この花の名と風とを結びつけて語ったのが、オウィディウスの『変身物語』である。猪に突かれて死んだ美少年アドニスの血に、女神アプロディテが神々の飲み物ネクタルを注ぐと、ザクロの実のような色の花が咲いた。けれどもその花は長くはもたない。茎にしっかり付いていないうえに軽すぎて、名前を与えている当の風に散らされてしまう、と詩は結ばれる。英語では1550年代から見え、18世紀には海のイソギンチャク(sea anemone)にも使われるようになった。